色という自然の処方箋

いつも色彩自然学の学校を、ありがとうございます。

学校長のミッキーです。

こんにちはー。

さて、今日も何を綴ろうやら。

ここは小さな色のオンライン学校。

いままでいろんなことがありました。以前ここは、日本色彩心理学研究所という場所でした。
16年間ほど、私たち3人(いずみ、オリーブ)はそこでお世話になっていました。

コロナの影響もあって、立ち上げていた新しいプロジェクトも立ち行かず、
苦しい時期を迎えました。

先代の理事長は高齢でした。その少し前から所長が私に変わっていたのですが、
理事長から、「もう閉めよう」となり。。。。

私たち3人は、どこか似ている不器用な仲間でしたから
小さくでもいいから細く長く、
この本質的な色の学びを提供できる場を、
ゲーテとともに諦めずに営んでいこうとなりました。

その前からこうなるだろうと予感していたやんちゃな私は
いち早くオンラインに目をつけていました。

「オンラインってすご〜。」
って思っていなくても何度も言葉に出して言ってみました。
元からアナログなことが好きな人間で、
ついていけそうにない時もありましたが、
オンラインってすご〜っと思えるのは
仲間がいたからだと思います。

私たちは今、北海道と神戸でこの学校の運営をやってゆくことができています。

北海道の仲間の冬は過酷です。

雪がしんしんと降り積り、寒さの中でつのる孤独感もあります、
朝からの雪かきという重労働を思うと憂鬱な気分になる仲間と
ちょっとした時間につながり、顔をみて話すことができます。
色をつかい、何かを描いて、笑ったり泣いたりすることができます。
真っ白な景色に色を塗ることができます。
そんなこと、こうならなければできなかった。

そんなささやかな温かいことが、できる場所でありたい。

そんなことが誰か一人に向かってできる色育士たちでいてほしい。
そのためにできることを共有していきたいと思います。

色は自然の処方箋

心を、耕す。

私たちにとって、色は、「私の中の自然」を元気にしてくれる「処方箋」だと私は思っています。

私は「心を耕す」という言葉が好きでよく使うのですが、
「心」というのは、ある意味で「土壌」だと思います。

「土壌」はきれいだったらいいわけではありません。

微生物や菌がなければ、腐るものもなければ
やってくるものを解体できないし消化できない。
自分のものにすることができません。

そんな全体に必要なひとつの役割を、
心という「土壌」が持っていると思います。

きれいなだけの「土壌」など、たくましい何かが育つはずもない。
きれいなだけの「心」など、たくましい私が育つはずもない。

そう合点がいったとき、
私は私の自然を許せるのだと思います。

「私」を実らせる

私が「私」という人間を知ればしるほど、
とんでもなく面倒な奴だと思います。

そんなとんでもない私を咲かせて生き抜くためには、
私が「私」に実らなければなりません。

それがどのようかわからないから
皆が迷うのだと思います。

小松菜のようかもしれないし
ほうれん草のようかもしれない。
青物がいやだというなら
ぴちぴちピーチかもしれない。
大きな樹木かもしれない。

そんな「私」に実るための「土壌」は、
いろんな可能性を蓄えて準備したがっています。

多様性に向き合うべき時代がきているのは、
きっと偶然ではないのかもしれない。


それだけひとりの人が
これからの未来を生き抜くためには、
多様なものを蓄える必要があるという自然の要請だと思います。

多様な在り方を色に教えてもらう

日本人はとくに、はっきりとした色よりも
くもりをもったり、翳りを帯びた色の方が、心に落ち着きをもつことができます。

日本人のもつ色彩の豊かさは、
奥行きがあり繊細で
表側だけではなく裏側にまで渡ります。

光も闇も絡みあったような、そんな心がずっと昔からあったのだと思います。

光だけに向かうことがいいことなのか、
闇にだって私たちに意味ある何かがあるのではないか。
むしろそのうつろいに、私たちがいるのではないか。

絶対的な1つのものを、私たち日本人は昔から求めていません。
八百万の神があったからです。
森羅万象にそこここに神々が宿っていました。

色はその森羅万象の1つ1つを教えてくれます。
その1つ1つが、生きていて死んでゆき、次へと送ります。
そしてその1つ1つが、全体と関わりあって、かけがえがありません。

黄色といえば、たんぽぽがよくイメージされます。
たんぽぽは、踏まれて可哀想、と人は言います。

でもたんぽぽは、自ら踏まれるような場所に咲くそうです。
踏まれていいような場所は、たんぽぽのように背が低い植物が誰よりも光を浴びることができる。

だから綿毛になっていろんな踏まれる場所に飛んでゆきます。

たんぽぽは踏まれてもつぶされないよう、茎をもちません。
中心から放射状に広がる形態をもっています。

こういったたんぽぽのもつふるまいや在り方が
黄という色彩のもつ特性と、無関係なはずがありません。

色彩は自然が語ることばです。

全部の色に、こんな物語がそれぞれにあります。

この黄色いたんぽぽから
私は私自身を学ぶし、そう勇敢でも愚かでもあれるだろうかと
同じ生命のことを思います。

自由を育む色

「色は、勉強したくない。」

そう言われることがありました。
色を勉強するなんて、どんどん色を感じる自由を閉じ込めてしまうことだ、と。

今、自分の色を感じる心が自由だと思うなら、
色を勉強する必要はありません。

ただ、色を狭い世界に色を閉じ込めてしまうのは、
きっと自分の心が狭いからです。

広い世界を感じることができるのは
きっと自分が広さをもつからです。

私たちは自分のもつ「自由」を自分次第で
育めるのだと思います。

心を耕してくれるのは、色や音やニオイや味や感触や、
きっと会社や学校では、満足に勉強させてもらえないものに潜んでいます。

色という自然の処方箋をもらいながら生きる

人生は短いよな、と最近の私は思うようになりました。
1つのことでアホみたいに手がいっぱいです。

病気の人もいるかもしれない。
手足が不自由な人もいるかもしれない。
心が囚われている人もいるかもしれない。
いろんな不自由の中にあっても
色は私を旅させてくれます。

喜怒哀楽を感じさせ、
懐かしいいつかの日を思い出させ、
未来のいつかの日まで思わせ、
想像よりも混沌とした幾重にも重なった私まで、
見せてくれるところがあります。

単純に、
やってくる色という自然の処方箋を、
大切に受け取りながら生きていくことができればと思います。

またとりとめもない文章になりましたが、
おやすみなさい。

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