今、「緑」を考える

代表 ミッキー

色彩自然学の学校の代表のミッキーです。こんにちは。
いつもこの学校を見に来ていただきましてありがとうございます。
また、初めての方は、はじめまして。よろしくお願いします。

このような冬の到来を感じるときに、「緑」の話をするのもどうか、と思ったのですが、
よろしければ多少マニアックな「緑」という色彩の話になりますが、少しだけお付き合いください。

緑について

私は今、多くの大学生たちに色と自然と心との関係性を教えたり学び合う現場にいます。
15回ある授業の中で、ちょうど10回目にあたる頃に、「緑」という色彩について学びを始めました。

私はこういう仕事をしているので、人間というものはあらかじめ自然から与えられたものがあり、
自己を実現していくための素質を豊富に持っている
と考えています。
ただ、それを「使う」も「ほこりをかぶせてしまう」も、当人に委ねられていると思っています。

ゲーテは、その人間にあらかじめ与えられている素質が、まるで色彩環にあらわれているあらゆる色として表現されていると、色の不思議や魅力を伝えてくれています。

さて、「緑」という色ですが、

我々が極めて広い意味で、「生きている」と呼ぶすべてのものは、自分と同じものを生み出す能力を有している

ゲーテ

ゲーテは、「永遠に自分と同じものを生み出す生命点」を、植物の観察において見つけました。
少し難しい言い回しだと思うので、少しだけ説明します。

生きているものは、自分と同じものを生み出す能力を持たされています。
アメーバであれば分裂してアメーバを。人間も人間を、虫も虫を、植物もその植物を、有性生殖であれ無性生殖であれ、自分と同じものを生み出す能力があるということです。
それが植物においては、「葉」、つまり象徴的に「緑」で表現されます。
しかも、これは長くなるので割愛しますが、緑で始まることは植物においてだけにはとどまりませんでした。動物も、人間も本質的には緑から始まります。

「葉が、しげる」と私たちも表現します。夏になると混みいるほどに同じ葉が、1つの植物から生えてきます。
「緑」という色が宿る生命には、そのように「自らを反復する運動」が与えられています。
反復することで、同じものを量的に生産してゆき、発展する力を蓄えてゆきます。

私たち人間も、「緑」という色彩を経験しているときは、このような「単純な反復運動」をその生活の礎としている可能性があります。このことは、自閉症の子どもが、自分のもつルーティンから外れたときにパニックを起こすことを思い出します。彼らはおそらく、本質的には緑のような色を体現しながら生活をしているのだと感じます。

「緑」という色は、そういった集合的な状態から個別的に特殊化するに至るまで、段階的な梯子を登ってゆきます。
「葉」が茎葉に、茎葉が萼になり、萼から花弁へとなってゆきます。「葉」という基本的な器官が、次第に次なる器官へと発展し、完成され、萼や花弁にまで変化してゆく間も、長い反復運動の道のりが礎となって最後の生殖の結合にまで作用しています。

学生たちの中には、自分の感覚を通して学ぶことのコツを、数回で回復する生徒もいてます。
今回もそういった学生が「緑」という色が「隠す」という行為をしている、と、「緑のふるまい」を発見していました。
そういった彼らの発見は新鮮で、1つのことを違う角度から見ることができる柔軟性を感じます。1つのものが表す表情は見る角度からすれば実に多様になってゆきます。

大学生になった彼らは、未曾有の感染症拡大において、社会に出ることの不安をそれぞれに抱えています。
授業も全部オンラインになったりして、カメラもOFFが通例の馴染みない環境で、他人と関わり合う時間が圧倒的に不安定になりました。
今彼らが、大学時代に何を信じ何を育めるのか、という希望を、私たち大人が積極的に語らなければいけない、と差し迫ったものを感じながら、私は「緑」の授業に入っています。

それは、彼らが発見した緑色の「隠す」という特性の中に、大きなヒントがあるように感じました。

葉を喰む時間

「緑」がしげることで、深い緑の多くの葉に囲まれ、カモフラージュされる生命たちがいます。
カモフラージュされることで、蛹になって華やかに飛び立つまでのひたむきな活動を支えられています。
「みんな一緒」「目立たない」というような集合的な生活の中でしか、育めないものがあったことを、私たち大人は思い出し、拾い上げ、その魅力を語らなければならないのではないかと思います。

「多様性」や「個性」がうたわれる時代です。
それでも、その時代が到達した「多様性」が、脆いものだったり、幻になってしまうものでは悲しいと思うのです。
それは、「基盤」があってこそ、その上に咲く「花」のようなものではないかと思います。

「緑」という色を経験する時代が、ちょうど20歳くらいの私が今出会っている学生たちのように感じています。
彼らは、光と闇の間で、互い違いにもたらされる世界を、右往左往する時間を与えられているように思います。
終わりがない繰り返しの毎日が続きます。朝起きて、オンライン授業を受けて、バイトに行って、眠って、それを私自身も数年間繰り返しました。でも、その中には、そのルーティンに深く関わる覚悟があれば、かけがえない経験がや積み重ねや失敗や成功体験がたくさん転がっているだろうし、その時間がいかに「個性化の過程」を歩もうと社会に出ていく「私」にとって栄養になるか、40歳を超えた私はわかっています。

人間にとっての緑の時間は、青虫が蝶になるために葉を喰む時間と同型です。

このブログを読むみなさんがどのように感じるかはぜひ教えて欲しいところですが、私は植物や動物を観察しながら、そして人間に出会いながら思いました。

「緑の時間」(葉を喰むこと)を諦めてしまっては、「私らしい姿」(蝶)にはなれない。

青虫は、それをよくわかっていますが、私たちはその記憶を忘れてしまっているかもしれません。

たとえ嫌がれても、”その「緑」を、今はできる限り喰んでみた方がいい”ことを、伝えるべきだと思っています。

「緑」の時代に、腐るも、励むも、彼ら次第なのだと思います。
私ができることは、「緑」であることの良さと悪さを、色という自分の仕事から、学び合うことなのだと思います。

今回は緑の話をさせてもらいました。
最後まで読んでくださりありがとうございました。
ご意見やご感想などをいただけましたら、励みになります。

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