丁寧に、がむしゃらに、生きる

みっきー先生

こんにちは。色彩自然学の学校の代表、髙橋水木です。
今回はブログとレポートを両方合体して書きました。時間がある方は読んでやってください。

「丁寧に生きる」なんて、
家庭や仕事やいろんなことに絡みとられる40代に、甘いことを言っているだろうか。
「40代なんてがむしゃらにやる年齢よ」なんて親からは言われたりして、うん、そうやろうなと思う。
友人なんかには、「おまえはよくそんな新しいことばっかして生きれるよな」とか言われる。
それってどういう意味なのか、あまり深く考えると腹が立つかもしれないので考えていないが、たぶん安定しないし危なっかしいがむしゃらに見える生き方だという類のことだろうと思う。
そんな友人に、私が「丁寧に生きとるねん」と言ったって、目を丸くするだけだろう。

私は、「がむしゃら」と「丁寧」は共存すると思っている。
40になってそれをより強く感じる。

相対するものだから、どちらかを制御しなければ自分の在り方が決まらない。若いころはそのように感じていたかもしれない。
できることなら全部を丁寧に生きたい。そう思っていたかもしれない。
でも、それはきっと間違っていた。

それらは2つで1つなんだと思う。

互いに補い合おうとしていることが、なんとなくわかり始めてくると、
どちらかにどちらかを譲りながら、
もう一方は虎視眈々と自分が出られる隙を、そばで狙い構えていることを感じる。
敵のようでもあり、味方のようでもあり、反発したりひっついたりしている。
宿命的な不思議な関係だ。

丁寧さがうまくいかないときは、がむしゃらさが顔を出して「おれにまかせろー」という。
がむしゃらさがあまりにも顔を出していると、あとあと回ってくることに困ることがあって、
「きみのそういうところやで」と丁寧な自分がそれを後始末する。
そんな具合で、いまの私は回っている気がする。

闘病をしている父をみながら、
一人の人間が自分という生命を生き抜いていくことは相当な出来事だと思った。
いろんなものや人や自然や宇宙と、縦にも横にも斜めにも結びついてしまっている。
そんな「私」という一人の存在を、私たちもひとりひとり生き抜かなければならない。
一面的な在り方だけでやっていけるほど、人生はまっすぐで単純ではないのだろう。
複雑になっていくから、愛することを学べるのだろう。

自然が与えてくれるものを知ることで、
私はずいぶん自分を信じることができるようになった。
自分の中にある「なんくるないさ」は年々育っていっている気がするが、
それは無闇で無秩序で、全くあてのない「なんくるないさ」ではない。
大きな自然に包まれていると感じることのできる「なんくるないさ」が感じられる。

そういえば、まだまだ闘病の父の姿が頭によぎって、悲しみに捕まえられる日があるけれど、
父がこの世で見られなかった景色を、私は心にいる父とともに一緒にみたいと思うようになった。
こういうことが、また、私の生きる意味になっていく。
悲しみと向き合うことは、大切なことなんだろうと思う。
どれだけ長いトンネルだとしても、ごまかしてしまわないように。

こんなブログのような流れからで
なんともバランスが悪いかもしれないが、
せっかくならこのような調子のままで、12月のレポートをいろいろしようと思う。

4期色の本質マスター講座、修了!

4期生のみなさん:最終授業

4期生の【色の本質マスター講座】が6回全課程を、無事にみんなで修了できた。
私は、ゲーテやユングや、この色彩自然学から、自分という生命に流れている「地下水」のことを学んできたように思っている。
そこから汲み上げられるものが、私を創る可能性にもなっていくし、根源的に内在している自発的な力にも関わっている。
それは私という生命が私のものだけではないことを知ることでもあるようで、私は否が応でも押し広げられ、重力を感じるようになる。

その重力が面倒くさくてしんどく感じる時期もあるし、
その重力がなければ吹き飛ばされてしまうかもしれない時もあるだろうと思う。

色というのは、そういった私の生命の不思議や根源的なものに関わるものだと思っている。

最後は全員で終えることができて、みなさんが真正面から取り組み励んでくれたおかげだったと思う。
私は未熟なところが多々あったと思うけれど、これが全力でした。
あとはみなさんがみなさんの素晴らしいと感じたところから、自分を押し広げて学び深めて楽しんで生きてもらいたいと願います。

それぞれの輝きを放っている、素敵な人たちでした。もっと知りたかった。
今後も長く関わり合いたいと願うけれど、それぞれが始まるためには、しっかりと終わりたいと思います。
ありがとうございました。

大学での自然色彩学講座

大学のオンライン授業は、全部で15回あるのだけれど、今は12回目が終わったところで、みんなよく出席してくれている。
カメラOFFが通例だし150人近くいるので、あまり個を知ることができないかと思っていたけれど、
感想レポートや授業間での少しの会話やで、少しずつ知れる学生も出てきて、彼らと会うことが私は楽しみになっている。

オンラインの授業は、学生たちの協力なしにはやっていけないと私は痛感している。
問いかけにチャットで入力してくれたり、わからないことを一緒に考えてくれたり、ブレイクアウトルームの分室の取り組みを積極的に取り組んでくれたり、スライドワークや感想レポートでやりとりしたり。
アシスタントをのスタッフもひとりついているが、学生たちとっては何かあったときに相談できるスタッフがいることは、安心感があるのではないかと思う。
まさかの全15回がオンラインになるなんて思わなかったけれど、オンラインにはオンラインの良さがやっぱりあるのかもしれない。
そして何より、教員がオンラインであることでできないことがあることを諦めてはいけないのかもしれない。

学生たちは回を重ねるごとに、自分の考えを述べることが多くなってきた。
黄、青、赤と色の本質へと接近していくので、赤になるころには、言葉や思いが形になっていくのかもしれない。
こんな時代だからこそ、オンライン授業であっても彼らが少しでも未来の糧になるような時間を過ごせることを、
私たちは全力で模索するしかない。

彼らの学生時代の今という時間は、二度と戻らないからだ。

最後の授業では、対面でみんなに会いたいなと思うけれど、それができてもできなくても、一緒にやりぬこうと思う。

色育士の庭

色育士たちとの勉強会

色育士の庭はようやく1年が経って、今月になり、パワーアップ計画が実行されて、
手探りの運営から中身が確かなものに大きく変化してきた。
それぞれに抱える色育士たちの課題や、色育士たちにとって何をすることが大切かを
マネージャーとチーフがしっかり考えてくれた。

マスター講座を修了してから、色育士になることを私は一切勧誘しない。
彼女たちも全く勧誘はしない。
講座修了をもって自分の場に学んだことを生かしてゆく人もいれば、
このような学びを続けていきながら、自分の場をいずれ持ちたいという人たちもいる。
色庭には、そういった学び続けたい人たちが多いように思う。
そのための環境づくりにおいて、今回は大きな変革になったと思う。
また、小さな学校だけれど、学校の運営についても固まることのないしなやかなイメージをもって、
いろんな人に関わってもらうべきだと感じている。

人数は多くなくていい。
色に込められた自然の生命のエールを、そして私たちを奮い立たせるような自然の怖さをも、それぞれに自覚しながら、
好奇心をもって自分の道を、自分の魂を震わせながら生きていく仲間でありたい。

最後までよんでくださりありがとうございました。
またご意見、ご感想などいただけましたら励みになります。

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