学びの場という海

代表 ミッキー

こんにちは。色彩自然学の学校の代表ミッキーのコラムです。不定期に更新しています。

学びの場という海

「今」というこの時、

私は寝っ転がって、

ふてくされて、

きのこの本を読んでいるかもしれない。


でも、

この「今」というときは「部分」でしかなくて、

ここに至るまでの「物語」と

ここから先にある「物語」との

点であるのだろう。

私は1つの講座を運営したり、

フィールドワークに出て研究したり

大学で教鞭に立ったり

つまるところ

花や虫や野菜や動物や人間やと接して

なんとかこれで生活をやっているわけだけれど、

ジョウビタキのオス

これに賭す重さや真剣さや愚かさのとおり、

色彩や自然は、

「点」のように学ぶものではないと思ったし、

分解して学ぶことができるものでは

ないんだと思った。

全何回かを通して

やっと電気が通うような

そんな謎の多き、循環の学びがあって

いいんだと思っている。

謎や曖昧さと向き合うことのできる忍耐力は

生きる上で大切ではなかったか。

生死にまたがるこの道こそ

そうではなかったか。

たんぽぽの綿毛

でも時にそういった形態に

自信はなくなり、

粘菌のように形をなくしたようになって、

ぐでたまのようにぐでんとしては

また誰かにお尻をたたかれたり、

心に灯る仲間との時間や

散歩で見つける自然たちのことばがやってきて

やっぱりこれを

諦めることができないのだと思う。

自然は止まってしまってはいけないから

本当に創ったり壊したり、

愛されていると感じさせたり恐ろしく慄かせたり、

寄せては返す波のように、

呼吸を続けている。

私たちの地下室にも、

そんな自然の水脈が流れていて、

それをとおして自然を知ろうと意志したものが

呼吸を続けなくてどうするんだ、と思う。

カモミールにいる虫たち

ささやかで当たり前のものを

色は教えてくれる。

当然あったものを、人は忘れてしまうし、

当然あったことほど重要なのだけれど、

それに自覚的になることは、

いつも以上にエネルギーのいることだと思う。

人生のどこかで灯りが消えるような

絶望を経験することも私たちはあるけれど、

ささやかだけど、かけがえのないことが

絶望する私のそばにもずっといてくれて、

それに気づくことは、

私の日常が

以前よりもとらわれのないものに変わっていくことの

道なのだ今は思っている。

おんぶアメンボ

今日も自然たちは

ただ生き生きとしていた。

竹林の道

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