つぐみ

自然界がさまざまな色を表すところに、科学的な発見や見解はきっとある。

それはいくらか、私たちを便利に楽しませてくれるかもしれない。

でも、
かのゲーテがその人生の晩年に『色彩論』で語ったように
色を分類し、部分で見る科学の見方だけでは、色そのもののもつ生命力のようなものが、失われてしまうのではなかったか。

色彩の中にこそ、自然の根源法則が働いている。

在るところに、在るように息づいて、移ろいゆくのが色であり、
在るところに、在るようにおさまっていくのが自然の息吹ではないだろうか。

色彩を
万物を生み出す母のような”自然のことば”として読んでみる。

それには私たちの”いのち”が経験してきた記憶がいるのだと思う。

泥の中のみどりの芽が、水上に咲くあの蓮の花弁になり、枯れて種へとまたこめられていく。
地を這う青虫が、その羽色で空を飛ぶ蝶にまでなり、卵へとまたこめられていく。
転がり砕ける石ころが、悠久の時を経て、硬く光るダイアモンドにまでなるという。

その宇宙循環、生命循環を、自然の組み上がりを、
色の本質から学び取ろうとする道の上に、
「わたし」すらいる。

自然 分身(じねんぶんしん)。
「自分自身」とは、誰もが”自然の分身”、ということだそうだ。

色や自然を探究することは
「私」が自分自身の「心」に沈むことなのだと思う。

その喜びについて、苦しみについて、癒しについて、「自己」とは何かについて、探究することになる。

人間の都合から、色を見てきた歴史の長さは、計り知れなくなってしまった。
進歩の都合から自然を操作してきた歴史の長さの分だけ、
私たちの心身は遠くなってしまったかもしれない。

でも今、いたるところで「自然」が悲鳴をあげる中、
今度は、私たちが、「自然」の側から、「色」の側から、
人間や生命を思いやる時代が、やってきているのではないだろうか。

自然の中に私が生かされ、私の中に自然が生きていること。

その気づきを、色という自然のことばは、いつもそばにあってもたらしてくれる。
自然とともに、人が生きていくための大切な知恵として。

色彩自然学の学校 代表 髙橋水木