色の意味は、もう簡単に調べられる時代になった

色について知りたいと思ったとき、私たちはもう、ずいぶん多くの入口を持っている。

本屋に行けば、色彩心理や配色、カラーセラピーに関する本が並んでいる。ネットで検索すれば、「赤は情熱」「青は冷静」「黄色は希望」といった説明にすぐ出くわす。AIに尋ねれば、色の意味や使い方、心理的な印象まで、短い時間で整理して返してくれる。

そう考えると、「知識を得るだけなら、独学でも十分なのではないか」と思うのは、当然だろう。

実際、色の一般的な意味を知ることだけが目的であれば、わざわざ講座で学ばなくても足りることが多い。色名を覚えること、色の象徴を知ること、配色の基本を理解すること。そうした学びは、本やネットでも進められる。

けれど、少し立ち止まってみたい。

知識として手に入れた言葉は、まだ、自分の言葉になっているとは限らないからだ。

外から手に入る色の知識

色に関する情報を検索する。

青について調べれば、「冷静」「知性」「誠実」「信頼」といった言葉が出てくる。
赤であれば、「情熱」「生命力」「危険」「行動力」など。
黄色であれば、「明るさ」「希望」「注意」「子どもらしさ」といったキーワードが語られている。

もちろん、これらには意味がある。

色を扱う入口として、こうした一般的で記号的な理解は役に立つ。
デザインや教育、心理支援、日常のコミュニケーションの中でも、色の印象をある程度共有することは必要である。

でも、その知識は、あくまで外側から受け取ったもの。

それは、多くの人に通じやすいように整理された、誰かがまとめた言葉でもある。いわば、広く使えるように平らにならされた言葉ではなかったか。

その言葉を知っているだけでは、まだ、自分が本当にその色を知ったこと、にはならないのではないかと私は思う。

自分の思想へとつなぐ

色の意味を説明することと、その色の意味を自分のこととして語ることはちょっと違う。

たとえば、「青は冷静さを示す」と、それこそ客観的に言うことはできる。

でも、その冷静さが、自分の中でどのような質感を持っているのか。海の底のような静けさなのか。夜にひとりで空を見上げた経験が重なるのか。あるいは、自分の輪郭が少しほどけて、世界の広がりに身を預けるような感覚なのか。

そこまで感じていなければ、「冷静」という言葉は、どこか薄いまま残ってしまう。
青を外にみるか、自分の内にみるか、で言葉の質が変わってくる。

人に何かを伝えるとき、正しいことを言っているだけでは足りない場面があるのではないだろうか。とくに色のように、人の心や自然に関わるものは、説明の正しさだけでは届きにくいものがあると思う。

その伝え手が、色とともに過ごした時間が、言葉の奥ににじむ。そのにじみのようなものが、聞き手に伝わる説得力になるのではなかっただろうか。

私は色彩自然学という色の学びをアカデミックな場で学べるものにしたいとトライしている。それは、単に色の意味を増やしていく学びではない。むしろ、すでに自分が知っている言葉を、もう一度、自分の身体と自然の中に還していくことにある。

外から得た知識を、自分の内側で発酵させていく。

色の言葉は借り物ではなく、自分の思想として根を張りはじめるとき、さまざまな境界を超えていく言葉になるのだと思う。


体で感じること

色を学ぶとき、知識はもちろん大切である。

けれど、色を人に伝える仕事や、色を通して心や自然を見つめる学びにおいては、知識だけでは届かない領域がある。そこには、体で感じること、実際に手を動かすこと、他者の表現に触れること、そして自分の中で何度も考えなおすことが必要になる。

たとえば、青について、実際に青い色鉛筆を手に取り、月夜を描いてみると、その話題となる「冷静さ」は少し違ったものとして立ち上がってくるかもしれない。

塗っても塗っても終わらない夜の広がり。黒に近づくほど深くなってゆく青。月の光を際立たせるために、背景として沈黙している青。あるいは、海や空のように、どこまでが自分で、どこからが自分ではない世界なのか分からなくなるような青。

実際に色に触れると、言葉だけではつかめなかった感覚が生まれる。