およそ四千年前、古代メソポタミアで書き継がれた物語があります。その中の1つ、『イナンナの冥界くだり』をここでは原典に基づく日本語訳で紹介していきます。

この物語は、世界最古の女神の1人とされる天の女王イナンナが、自ら冥界へと降りてゆく物語です。

七つの門を通るたびに、彼女は身につけていたものを一つずつ失ってゆきます。
やがてすべてを失い、死に、そして再び地上へ戻ってきます。

この古い物語は、現代人の心の深みに流れている普遍的な心の運びを語るものでもあると考えられます。その解説をすることより先に、まず、物語そのものを読む場を持ちたいと願い、このシリーズを立ち上げました。

シュメール語の校訂本文をもとに日本語に訳し、十二の場面を本コラムオリジナルの絵とともにたどっていきたいと思います。

原文について

この物語は、一枚の完全な粘土板に残されたものではない。現在読むことのできる『イナンナの冥界下り』は、古バビロニア時代を中心とする複数の写本・粘土板断片を研究者が照合して再構成した「複合本文」である。

ここでは ETCSL(Electronic Text Corpus of Sumerian Literature)c.1.4.1 “Inana’s descent to the nether world” の行番号を基本とし、シュメール語本文、ePSD2の語彙情報、およびPascal Attingerによる校訂・研究を参照して日本語訳を作成している。

読みやすさを優先しているため、日本語本文では細かな写本差をすべて挿入せず、重要なものを文末の訳注で示す。

第1場面 大いなる天から、大いなる下方へ

―― イナンナ、冥界へ向かう
冥界へ向かう前、完全な装いで大いなる下方を見つめるイナンナと、後方に従うニンシュブル

〔シュメール語本文 1–27行〕

大いなる天から、大いなる下方へ、
彼女は心を向けた。

大いなる天から、大いなる下方へ、
女神は心を向けた。

大いなる天から、大いなる下方へ、
イナンナは心を向けた。

わが女主人(あるじ)は天を離れ、
地を離れ、
冥界へと下った。

イナンナは天を離れ、
地を離れ、
冥界へと下った。

エンの職を離れ、
ラガルの職を離れ、
冥界へと下った。

ウルクでは、エアンナを離れ、
冥界へと下った。

バド・ティビラでは、エムシュカラマを離れ、
冥界へと下った。

ザバラムでは、ギグナを離れ、
冥界へと下った。

アダブでは、エシャラを離れ、
冥界へと下った。

ニップルでは、バラグ・ドゥルガラを離れ、
冥界へと下った。

キシュでは、フルサグカラマを離れ、
冥界へと下った。

アガデでは、エウルマシュを離れ、
冥界へと下った。

イナンナは、七つの〈メ〉をそろえた。
すべての〈メ〉を集め、
その手に携えた。

よき〈メ〉を身に帯びて、
彼女は歩みはじめた。

頭には、野の冠であるシュグラの頭飾りをつけた。
額には、儀礼の鬘をつけた。
首には、小さなラピスラズリの珠を連ねた。

胸には、二列の珠飾りを整えた。
身体には、女王にふさわしいパラの衣をまとった。

目には、
《男よ、近づけ、近づけ》
と呼ばれる化粧を施した。

胸には、
《男よ、来たれ、来たれ》
と呼ばれる留め針をつけた。

手には、金の輪をつけた。

そして、
一ニンダンの測り杖と、
測り縄を手にした。

イナンナは、冥界へ向かって歩んだ。

その後ろを、
彼女の忠実な使者ニンシュブルが歩んでいった。


訳注

1|「心を向けた」

冒頭のシュメール語は、

an gal-ta ki gal-še₃ ĝeštug₂-ga-ni na-an-gub

である。

ここで「心を向けた」と訳した部分には ĝeštug という語が含まれている。

ĝeštug の基本的な意味は「耳」であり、そこから「理解」「思慮」「知恵」などの意味にも用いられる。また、この箇所で使われている ĝeštug gub という表現には「注意を向ける」「思い定める・計画する」といった意味がある。

したがって、「心を向けた」は読みやすさを考えた訳であるが、その背後には、
「大いなる下方へ、耳を向けた」
という身体的な響きが残っている。この響きは、原文を読むうえで大切にしておいた。

2|「大いなる下方」

原文の ki gal は、直訳すれば「大いなる地」に近い。
しかしこの箇所では、通常の地上世界ではなく、イナンナがこれから向かおうとする冥界を指す表現と理解されている。

そのため、ここでは「大いなる地」ではなく、
「大いなる下方」と訳した。

冒頭の
大いなる天 ―― 大いなる下方
という垂直の対照を日本語でも残すためである。

3|「離れた」

4行目以降では、
「天を離れ、地を離れ、冥界へ下る」
という表現が繰り返される。

シュメール語 šub には「落とす・捨てる・放す」などの意味があり、この箇所は「捨てた」「放棄した」と訳されることも多い。

ここでは、イナンナがそれまで属していた領域や地位を後にしてゆく運動を、日本語で過度に解釈しないために「離れた」とした。

「捨てた」という強い語感をとるかどうかについては、研究上も一様ではない。

4|〈メ〉とは何か

シュメール語の me は、一語で日本語に置き換えることが難しい語である。

「神的な力」「神的秩序」「神的規範」「神々に属する属性」などと訳されるが、単なる抽象的な「力」ではない。

『イナンナの冥界下り』では、〈メ〉は身につけたり、取り去られたりする具体的なものとしても表現される。

そのため、本稿では特定の意味に固定せず、
〈メ〉
と原語を残すことにした。

物語が進むにつれて、それがイナンナにとって何であったのかを見ていきたい。

5|七つの〈メ〉と装身具

本文には「七つの〈メ〉」とある一方、その後には七点を超える衣服・装身具・化粧が列挙される。

したがって、ここに並ぶすべての品を単純に「七つの〈メ〉の一つずつ」と対応させることは避けた方がよい。

のちに七つの門を通過する場面では、そのうちの七つが一つずつイナンナから取り去られてゆく。

6|装身具の名称について

装身具のいくつかは、現代の衣服の名称に正確に置き換えることができない。

たとえば胸につける tu-di-da は、現在のePSD2では儀礼的・装飾的な「留め針(toggle pin)」にあたる語として整理されている。

また胸の珠飾りについても、古い翻訳では「一対の卵形の珠」などとされてきたが、Attingerは語彙資料を踏まえて「二列の珠飾り」と解している。

本稿では、考古学的に確定できない形を挿絵で断定的に描かないことにしたい。

この場面で起きていること

ここで確実に読み取れるのは、まだ「なぜイナンナが冥界へ行くのか」という心理的な理由ではない。

物語が最初に語るのは、
イナンナが冥界へ心を向けたこと。

そして、
天、地、役職、神殿を次々と後にしながら、それでも〈メ〉と装身具を身につけ、冥界へ向かったこと。
である。

その後ろには、ニンシュブルがいる。

ここではまだ、この女神の下降を「死と再生」「自我の解体」「個性化」などと意味づけず、まず古い物語が語っている姿を、そのまま見ておきたい。

次の場面でイナンナは、このニンシュブルに、自分が戻らなかったとき何をすべきかを告げることになる。