シュメール神話『イナンナの冥界下り』を読む

――シュメール語校訂本文に基づく日本語訳と12の挿絵

大いなる天から、大いなる下方へ。
古代メソポタミアに残された神話のなかに、女神イナンナが自ら冥界へと下ってゆく物語があります。

イナンナは天と地を離れ、神殿を離れ、女王としての装いを整えて冥界へと向かいます。
そして七つの門を通るたびに、身につけていたものを一つずつ取り去られてゆきます。

やがて彼女はすべてを失い、冥界の女王エレシュキガルの前に立ち、死を迎えることになります。
しかし、物語はそこで終わりません。

死んだイナンナを地上で待つ者がいます。そして、彼女を救おうとする者がいます。

再び冥界から戻ろうとするとき、今度は「誰かが代わりに下らなければならない」という新たな出来事が始まります。

『イナンナの冥界下り』は、下降と喪失、死、回復、そして帰還をめぐる、
古代シュメールの奥深い、我々の心の深みに息づく物語です。

このページについて

このページでは、『イナンナの冥界下り』を全12場面に分け、シュメール語の校訂本文を参照しながら日本語に訳し、オリジナルの挿絵とともに順番に掲載していきます。

目指しているのは、神話の「あらすじ」を紹介することではありません。
できるだけ物語そのものを読むことです。

現代の言葉で要約してしまえば、数分で説明することができることがあります。
でも、神話には、繰り返される言葉や、奇妙に見える細部、沈黙、名前、身につけているもの、失われてゆくものなど、要約のなかでは消えてしまうものがたくさんあるように思います。

意味を急いで決めるのではなく、
まず、古い物語がどのように語っているのかを見る。

そこから始めたいと思い、この連載を立ち上げました。

「原典に基づく日本語訳」について

『イナンナの冥界下り』には、一冊の本のような形で残された唯一の「原本」が存在するわけではありません。

現在読むことのできるシュメール語本文は、古代メソポタミアから発見された複数の粘土板や断片を研究者が比較し、再構成した複合的な校訂本文です。

本連載では、ETCSL(Electronic Text Corpus of Sumerian Literature)c.1.4.1 “Inana’s descent to the nether world” の行番号と本文を基本とし、現在ORACC/ePSD2で公開されているシュメール語本文・語彙資料なども照合しながら訳を作成しています。ORACCではこの作品は古バビロニア期のシュメール文学作品として整理されています。

つきましては、この連載でいう「原典に基づく日本語訳」とは、

一枚の完全な原典粘土板を直訳するという意味ではなく、研究によって再構成されたシュメール語校訂本文をもとに日本語へ訳す

という意味で用いています。

翻訳の方針

この連載では、次のことを大切にします。

  1. シュメール語本文から離れすぎないこと
  2. それでも現代の日本語として無理なく読めること
  3. 一語に決められない重要語は、必要に応じて原語を残すこと
  4. 写本の違いや欠損など、重要な問題は訳注として示すこと
  5. 訳者の心理学的・象徴的解釈を、原文そのものと混同しないこと

たとえばシュメール語の me は、「神的な力」「秩序」「規範」などさまざまに説明される語です。

でも、一つの日本語に置き換えると、その言葉がもっていた広がりを失う可能性があります。

そのため本連載では、こうした重要語については必要に応じて 〈メ〉 のように原語を残し、訳注で説明することにしています。

また本文の欠損や写本による違いについても、分からないところを想像で補って物語を完成させることはしません。

挿絵について

本連載の挿絵は、古代メソポタミアの考古資料や文化的背景を参考にしながら制作したオリジナルの神話挿絵です。ただし、考古学的な復元図ではありません。

『イナンナの冥界下り』には、衣装や装身具の名前は記されていても、その形を現代の私たちが完全に復元できないものがあります。
冥界の風景についても、現代の幻想画のように細部まで描写されているわけではありません。

そのため挿絵では、
原文に書かれているものはできるだけ尊重し、書かれていないものについては断定しすぎない。
その方針を大切にしています。

12枚の絵を通して、最初には完全な装いをしていたイナンナが、七つの門を通りながらどのように変わってゆくのかも見ていただければと思います。

『イナンナの冥界下り』全12場面

※12場面という区分は、古代の原文に付けられている章立てではなく、本連載で物語を読みやすくするために設けた編集上の区分である。場面名は翻訳作業に伴い一部調整する場合がある。

第1場面

大いなる天から、大いなる下方へ――イナンナ、冥界へ向かう

イナンナは天と地を離れ、神殿を離れる。
七つの〈メ〉を集め、冠、ラピスラズリの珠、王衣、金の輪、測り杖と測り縄を身につけ、冥界へ向かって歩き始める。
その後ろには、忠実な使者ニンシュブルが従っている。

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第2場面

ニンシュブルへの託し ―― 私の言葉を忘れてはならない

イナンナは冥界へ入る前に、ニンシュブルへ言葉を託す。

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第3場面

冥界の門 ―― 行く者の帰らぬ道

地上から冥界へ。
イナンナは、閉ざされた門の前に立ち、門番ネティと話をする。

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第4場面

エレシュキガルへの報告 ―― 七つの門を閉ざせ

ネティがイナンナの到来と完全な装いを報告。
エレシュキガルが反応し、七つの門を閉ざして一門ずつ通すよう命じる。

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第5場面

七つの門 ―― 一つずつ、身につけたものを失う

七つの門を通過するたび、イナンナの装身具・王衣が取り去られる

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第6場面

死のまなざし ―― イナンナ、鉤に掛けられる

エレシュキガルとの対面、アヌンナの裁定、死の眼差し・言葉・叫び、イナンナの死

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第7場面

三日三晩 ―― ニンシュブル、救いを求める

ニンシュブルが託された言葉を実行。
エンリルとナンナは拒み、最後にエンキが応答して救済の準備を始める

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第8場面

エンキの救済 ―― 苦しむ者の声に応えよ

エンキがガラトゥラとクルガラに冥界へ行く方法と、
エレシュキガルの苦しみに応答する方法を教える

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第9場面

命の草と命の水 ―― イナンナ、再び立ち上がる

二つの存在がエレシュキガルの苦しみに応え、
イナンナの亡骸を受け取り、生命を回復させる

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第10場面

帰還の代価 ―― 誰を身代わりにするのか

イナンナは帰還を許されるが身代わりを要求される。
ガラの悪霊を伴い、ニンシュブル、シャラ、ルラルを次々に救う

順次公開


第11場面

ドゥムジ――死のまなざしと逃走

豪華な姿で座るドゥムジを発見。
イナンナが彼を引き渡し、ドゥムジはウトゥに助けを求めて逃れる

順次公開


第12場面

交替の定め――半年ずつの冥界、そしてエレシュキガルへの讃歌

イナンナの嘆き、蝿とのやり取り、
ドゥムジとその姉妹をめぐる交替の定め、最後のエレシュキガル讃歌

順次公開

神話を学び、「自分自身の物語」として読みたい方へ

『イナンナの冥界下り』を読みながら、神話をもう少し深く、自分自身の物語として考えてみたいと感じられた方は、こちらもご覧ください。

この連載ページでは、まずシュメール神話に触れ、そのものを読むことを大切にしました。

一方で、神話は、我々の深みで流れている普遍的な心の様式と関わりが深く、現代の心の問題を考えるうえで一つの大きな可能性をもっています。

でもそれは、シュメール語本文そのものに書かれている「事実」とは別の層にあるものです。

この連載の作成者は、女神神話やユングの分析心理学などを手がかりに、古い神話や読み継がれてきた童話を「昔の人々の物語」としてだけではなく、現代を生きる私たち自身の心に映る物語として読む講座を行っています。

まず、このシュメールの女神物語のあるがままに触れ、古代の物語でありながら、そこに自分自身の経験と重なるものが現れてくると感じられる方は、そのためのオンライン講座がありますので、ぜひご覧になってみてください。

神話の意味を一つに決めるための講座ではなく、

「この物語は、私には何を語っているのだろう」

そして、

「この物語は、人間たちの何を語っているのだろう」

と考えていきながら、学んでいく時間になります。

[女神神話の講座について →]


本連載で参照する主な資料

Electronic Text Corpus of Sumerian Literature(ETCSL)
c.1.4.1 “Inana’s descent to the nether world”

ORACC / ePSD2
“Inana’s descent to the nether world” Q000343
シュメール語本文および語彙資料

このほか、各場面の翻訳にあたって参照した校訂・研究資料については、それぞれの記事内で必要に応じて示す。