この物語は、一枚の完全な粘土板に残されたものではない。現在読むことのできる『イナンナの冥界下り』は、古バビロニア時代を中心とする複数の写本・粘土板断片を研究者が照合して再構成した「複合本文」である。
ここでは ETCSL(Electronic Text Corpus of Sumerian Literature)c.1.4.1 “Inana’s descent to the nether world” の行番号を基本とし、シュメール語本文、ePSD2の語彙情報、およびPascal Attingerによる校訂・研究を参照して日本語訳を作成している。
読みやすさを優先しているため、日本語本文では細かな写本差をすべて挿入せず、重要なものを文末の訳注で示す。
第5場面 七つの門

〔シュメール語本文 129–163行〕
イナンナが中へ入り、
第一の門を通ると、
頭から、
野の冠であるシュグラの頭飾りが
取り去られた。
イナンナは言った。
「これは、何なのですか。」
ネティは答えた。
「静かに、イナンナ。
冥界の〈メ〉は、
このように成就する。
イナンナよ、
冥界の掟に対して
口を差し挟んではならない。」
第二の門を通ると、
首から、
小さなラピスラズリの珠が
取り去られた。
「これは、何なのですか。」
「静かに、イナンナ。
冥界の〈メ〉は、
このように成就する。
イナンナよ、
冥界の掟に対して
口を差し挟んではならない。」
第三の門を通ると、
胸から、
二列の珠飾りが
取り去られた。
「これは、何なのですか。」
「静かに、イナンナ。
冥界の〈メ〉は、
このように成就する。
イナンナよ、
冥界の掟に対して
口を差し挟んではならない。」
第四の門を通ると、
胸から、
《男よ、来たれ、来たれ》
と呼ばれる留め針が
取り去られた。

「これは、何なのですか。」
「静かに、イナンナ。
冥界の〈メ〉は、
このように成就する。
イナンナよ、
冥界の掟に対して
口を差し挟んではならない。」
第五の門を通ると、
手から、
金の輪が取り去られた。
「これは、何なのですか。」
「静かに、イナンナ。
冥界の〈メ〉は、
このように成就する。
イナンナよ、
冥界の掟に対して
口を差し挟んではならない。」
第六の門を通ると、
手から、
測り杖と測り縄が
取り去られた。
「これは、何なのですか。」
「静かに、イナンナ。
冥界の〈メ〉は、
このように成就する。
イナンナよ、
冥界の掟に対して
口を差し挟んではならない。」
第七の門を通ると、
その身体から、
女王にふさわしいパラの衣が
取り去られた。
「これは、何なのですか。」
「静かに、イナンナ。
冥界の〈メ〉は、
このように成就する。
イナンナよ、
冥界の掟に対して
口を差し挟んではならない。」
※ETCSLの複合本文では、この七門の順序は「頭飾り→ラピスラズリの首飾り→胸の珠飾り→留め針→金の輪→測り杖と測り縄→パラの衣」となっています。
訳注
1|反復は省略しない
この場面では、現代の文章なら、
「同じ問答を繰り返しながら、七つの装身具を取り去られた」
と数行に要約できるものかもしれませんが、
原文は、一門ごとに、
門を通る
→ 何かが取り去られる
→ 「これは何なのか」と問う
→ 冥界の掟を告げられる
という構造を繰り返します。129–163行は、ほぼこの反復そのもので構成されています。
したがってここでは、同じ言葉を七回読む経験そのものが神話本文の一部ですので、本連載でも省略せず残しました。
2|「静かに、イナンナ」
この部分は、訳し方に違いがあり、
ETCSLは英語で、
“Be satisfied, Inana”
と訳していますが、語彙解析では si-a に「静かにする/沈黙する」に近い意味も示されています。Attingerはフランス語で、
“Silence, Innana”
と訳しています。
そのため本連載では、「静かに、イナンナ」としました。
「納得しなさい」とすると心理的な同意まで要求されているように響きますが、原文ではまず、抵抗して言葉を差し挟まないことが強調されています。
3|「冥界の〈メ〉は、このように成就する」
原文には、
me kur-ra
が含まれています。
ETCSLはここを “a divine power of the underworld” とし、Attingerはより一般的に「冥界の規則」と訳します。
しかし、この連載では第1場面から me=〈メ〉 を一語に固定せず残しています。
そのため、ここでも、
冥界の〈メ〉は、このように成就する。
としました。
つまり、第1場面でイナンナが身につけていた〈メ〉と、ここで告げられる**冥界の〈メ〉**が、同じ語であることを保ちます。
「イナンナの〈メ〉と冥界の〈メ〉が象徴的に対決している」
とまで言う解釈もありますが、原文上確実なのは、同じ me という語が用いられていることです。
4|「口を差し挟んではならない」
各門の最後には、
ĝarza kur-ra-ke₄ ka-zu na-an-ba-e
という言葉が繰り返されます。
ETCSLは、
“you must not open your mouth against the rites of the underworld”
Attingerは、
「冥界の定めに対して、つぶやいてはならない」
という方向で訳しています。
そこで、本連載では
「冥界の掟に対して、口を差し挟んではならない」としました。
ここで大切なのは、イナンナが「これは何なのか」と尋ねること自体は許されている一方で、その定めを変更する言葉は許されないという構造を重視しています。
5|実は、装身具の順番は写本によって違う
現在読む「七門の順序」は、一枚の完全な粘土板にきれいに残っているわけではありません。
Attingerは、
衣装・装身具・属性が取り去られる順序は、写本によって異なる
ことを明記しています。
特に測り杖と測り縄は、
- 第一門とする写本
- 第二門
- 第六門
- 第七門
- 第一門に入る前
など、写本によって位置が異なります。
したがって、本連載本文ではETCSLの複合本文で採用された順序を基本にします。
6|「七つ」なのに、すべての装いが対応していない
第1場面では、
- シュグラの頭飾り
- 額の鬘
- ラピスラズリ
- 胸の珠飾り
- パラの衣
- 目の化粧
- 留め針
- 金の輪
- 測り杖・測り縄
など、多くの要素が列挙されました。
ところがETCSLの七門では、
額の鬘と目の化粧は、七つの主要な剥奪には現れません。
さらにAttingerの校訂では、七門の反復の後に、一部写本に基づく追加行163a–eとして、
ある門を通ったとき、額の鬘が取り去られた
という別伝も記録されています。ただし、その門番号は写本によって「第二」「第六」などと一致せず、安定していません。
したがって、
「七つの門=第1場面の七つの持ち物を正確に一つずつ外す」
という、現代によく見られる整然とした図式化は慎重に扱う必要があります。
7|第一門の前にも異文がある
さらに、複数の写本では第一門の前に、測り杖と測り縄が取り去られたという一行があります。
ただし、その後に通常の「これは何なのか」という問答は続きません。Attingerは、この箇所を含め、写本ごとに剥奪の配列がかなり揺れていることを詳しく示しています。
そのため本文には混ぜず、異文として訳注に留めます。
この場面で起きていること
第4場面で、エレシュキガルは命じました。
七つの門に閂をかけよ。
その命令が、第5場面で実行されます。
第一の門で、イナンナは一つを失う。
そして問います。
「これは何なのですか。」
しかし返ってくるのは、説明ではありません。
「冥界の〈メ〉は、このように成就する。」
そして次の門へ進む。
再び失う。 再び問う。 再び同じ答え。
その反復が七回続きます。
ここで興味深いのは、イナンナが自ら装身具を差し出しているのではないことです。
原文では、それらは彼女から取り去られます。Attingerもこの動詞について、写本ごとに「持ち去る」「剥ぎ取る」など複数の動詞が用いられていることを指摘しています。
したがって、
「イナンナが自ら執着を手放していく七段階」
と説明するのは、少なくとも原文そのものではありません。
それは後世の象徴的・心理学的読みとしては可能でも、
神話本文では、冥界の秩序によって一つずつ奪われてゆくのです。
そして最後には、女王としての衣そのものが身体から取り去られます。
第1場面で最も多くのものを身につけていたイナンナは、ここでほとんどすべてを失います。
次の第6場面は、その状態のイナンナがエレシュキガルの前に出るところから始まります。