原文について

この物語は、一枚の完全な粘土板に残されたものではない。現在読むことのできる『イナンナの冥界下り』は、古バビロニア時代を中心とする複数の写本・粘土板断片を研究者が照合して再構成した「複合本文」である。

ここでは ETCSL(Electronic Text Corpus of Sumerian Literature)c.1.4.1 “Inana’s descent to the nether world” の行番号を基本とし、シュメール語本文、ePSD2の語彙情報、およびPascal Attingerによる校訂・研究を参照して日本語訳を作成している。

読みやすさを優先しているため、日本語本文では細かな写本差をすべて挿入せず、重要なものを文末の訳注で示す。

第4場面 エレシュキガルへの報告

――七つの門を閉ざせ
イナンナの到来を報告する門番ネティと、七つの門を閉ざすよう命じる冥界の女王エレシュキガル

〔シュメール語本文 94–128行〕

冥界の大いなる門番ネティは、
女主人エレシュキガルの家へ入り、
その前に進み出て言った。

「わが女主人よ。

外に、ひとりの若い女がいます。

天ほど高く、
地ほど広い。

イナンナ、
あなたの妹です。

彼女は、
ガンゼルの宮殿までやって来ました。

〔冥界の門扉を激しく押し、
その入口で険しい声をあげ、
エアンナを離れて、
冥界へ下って来ました。〕

彼女は、七つの〈メ〉をそろえています。

すべての〈メ〉を集め、
その手に携えています。

よき〈メ〉を身に帯びて、
ここまでやって来ました。

頭には、
野の冠であるシュグラの頭飾り。

額には、
儀礼の鬘。

首には、
小さなラピスラズリの珠。

胸には、
二列の珠飾り。

身体には、
女王にふさわしいパラの衣。

目には、
《男よ、近づけ、近づけ》
と呼ばれる化粧。

胸には、
《男よ、来たれ、来たれ》
と呼ばれる留め針。

手には、
金の輪。

そして、

一ニンダンの測り杖と、
測り縄を携えています。」

イナンナの到来を報告する門番ネティと、七つの門を閉ざすよう命じる冥界の女王エレシュキガル

それを聞くと、
エレシュキガルは腿を打った。

唇を噛み、

その言葉を、
深く心に受け止めた。

そして、
冥界の大いなる門番ネティに言った。

「来なさい、ネティ。

わが冥界の
大いなる門番よ。

私がこれから告げる言葉を、
なおざりにしてはならない。

冥界の七つの門に、
閂をかけよ。

そして、
ガンゼルの宮殿の門扉だけを、
まず開けよ。

彼女が中へ入ったなら、

幾度も、
身を屈めさせよ。

その身から
装いを剥ぎ取り、

私のもとへ
連れて来い。」

冥界の大いなる門番ネティは、
女主人の言葉に耳を傾けた。

冥界の七つの門に、
閂をかけた。

そして、
ガンゼルの宮殿の門扉を開いた。

聖なるイナンナに、
声をかけた。

「近づけ、イナンナ。

入りなさい。」

訳注

1|「天ほど高く、地ほど広い」

ここは今回、ETCSLから少し訳を更新しました。

ETCSLでは95–101行を、

「外に一人の娘がいる。それはあなたの姉妹イナンナである」

という比較的単純な文章として再構成しました。

一方、Attingerの新しい校訂では、「ひとりの若い女がいる。天ほど高く、地ほど広い」という表現が読まれています。

これは実際にイナンナの身体が天と地ほど巨大だった、と写実的に理解する必要はありません。

原文上確実なのは、ネティがエレシュキガルにイナンナの到来を報告する際、その存在を非常に大きな尺度で表現しているということです。

この連載では新しい校訂を尊重し、本文に残したいと思います。


2|94–101行には欠損がある

ネティが、

  • イナンナが来たこと
  • 門を激しく押したこと
  • 冥界へ下降したこと

を報告する部分には、写本の欠損があります。

ETCSLは複数写本を組み合わせて比較的滑らかな文章を復元していますが、Attingerの校訂では98–101行付近の破損がより明瞭に示されています。

そこで本文では、この部分だけ

〔 〕

を付けました。

これは、

「内容としてはかなり確からしいが、連続した一つの完全な写本からそのまま読める文章ではない」

ことを示すためです。

この記号の使い方は、今後欠損の大きな箇所でも統一したいと思います。


3|イナンナの装いが、もう一度すべて語られる

102–113行は、第1場面14–25行に出てきたイナンナの装いをほぼそのまま反復しています。

ここでは、その装いをネティがエレシュキガルに報告する

つまり、

イナンナが何を身につけているかを、エレシュキガルも知った

ということになります。

そして、その直後に、

七つの門を閉ざせ。
彼女を身を屈めさせ、装いを剥ぎ取れ。

という命令が出されます。

したがって、次の七門で起こる剥奪は偶然ではありません。

イナンナの完全な装いを確認したうえで命じられた、意図的な処置

であることが原文の構造から分かります。

これは解釈というより、本文の叙述順序から確認できます。


4|金の「輪」について

112行はETCSLでは単数の、「金の輪を手につけている」とされています。

一方Attingerは、「多くの金の腕輪を手首につけた」と再構成されていて、写本・語形の解釈に幅があります。

第1場面からすでに「金の輪」として統一しているため、本連載の本文では引き続き、

金の輪 とします。

ただし考古学的に「一本の指輪だった」と確定しているという意味ではありません。


5|エレシュキガルは「怒った」のか

114–115行には、

  • 腿を打つ
  • 唇を噛む
  • 言葉を心に受け止める

という身体表現があります。

後世の再話では、「エレシュキガルは激怒した」などとまとめられることがあります。

しかし原文は、心理状態そのものを「嫉妬」「怒り」などの抽象語で説明するより、身体の動作によって示しています

ですから今回の訳でも、

エレシュキガルは怒った。

とは書かず、

腿を打った。
唇を噛んだ。
その言葉を深く心に受け止めた。

としました。

なお、Attinger自身も114行の「腿を打つ」に相当する箇所について、文法的・語彙的に難しいところがあると注記しています。したがって、この身体動作の細部まで完全に確定しているとは言えません。


6|ネティか、ビティか

第3場面でも触れた通り、ETCSLでは門番を、

Neti(ネティ)

と読みます。

Attingerは複数写本をもとに、

Biti(ビティ)

と校訂しています。

本連載では一般的なETCSL表記との連続性を優先し、今後も本文ではネティに統一します。


7|「七つの門を閉ざせ」のあと、何を開くのか

ETCSLは120行付近を、

七つの門を閉ざし、
ガンゼル宮殿の扉を一つずつ開けよ

という意味に訳しています。

ところがAttingerは写本を詳しく検討し、

まず七つの門すべてに閂をかけ、ガンゼル宮殿の入口だけを最初に開く

という意味だった可能性を指摘しています。

そして、イナンナが進んでくるたびに、次の門を順に開いてゆく。その方が、次の第5場面の展開ともよく一致します。

そのため今回の本文では、

冥界の七つの門に、閂をかけよ。
そして、ガンゼルの宮殿の門扉だけを、まず開けよ。

を採用しました。


8|「幾度も身を屈めさせよ」

122行目、ETCSLでは、

entered, and crouched down and had her clothes removed

とされています。

Attingerは gurum-gurum を具体的な身体動作として、「何度も身を屈めさせられる」と解しています。

そこで、

幾度も、身を屈めさせよ。

としました。

この言葉は、これから起こる七門の出来事を考えると非常に重いものです。

ただ装身具を外されるだけではなく、一つの門を通るたびに、身体そのものが低くされてゆく。

ここに、「下降」が空間的な移動だけではなく、身体の姿勢としても現れていることが分かります。

「これは自我の屈服を意味する」などと心理学的意味については、ここで考察せず、まず原文が、身を屈めるという身体運動を語っていることをここで見ておきたいです。


この場面で起きていること

第3場面では、イナンナとネティが門を挟んで向き合いました。

第4場面では、視点が初めて冥界の内部へと移ってゆきます。

そして、エレシュキガルが初めて物語の現在に登場します。

ただ、興味深いことに、イナンナとエレシュキガルは、まだ直接会いません。ネティが間に立っています。

ネティは、イナンナが完全な装いをしていることを一つ一つエレシュキガルに報告します。

それを聞いたエレシュキガルは身体的に反応し、命じます。

七つの門に閂をかけよ。

そして、

彼女を幾度も身を屈めさせ、
その身から装いを剥ぎ取り、
私のところへ連れて来い。

と。

つまり第4場面は、七つの門の剥奪が始まった場面ではありません。

その一歩前、「剥奪という仕組みが定められた場面」です。

そして最後に、ネティが門へ戻ります。

「近づけ、イナンナ。入りなさい。」

これで次の第5場面、七つの門 が始まります。