この物語は、一枚の完全な粘土板に残されたものではない。現在読むことのできる『イナンナの冥界下り』は、古バビロニア時代を中心とする複数の写本・粘土板断片を研究者が照合して再構成した「複合本文」である。
ここでは ETCSL(Electronic Text Corpus of Sumerian Literature)c.1.4.1 “Inana’s descent to the nether world” の行番号を基本とし、シュメール語本文、ePSD2の語彙情報、およびPascal Attingerによる校訂・研究を参照して日本語訳を作成している。
読みやすさを優先しているため、日本語本文では細かな写本差をすべて挿入せず、重要なものを文末の訳注で示す。
第6場面 死のまなざし

〔シュメール語本文 164–172行〕

幾度も身を屈めさせられ、
その身から装いを剥ぎ取られると、
彼女は引き立てられた。
彼女は姉エレシュキガルを
その玉座から立ち上がらせ、
自らその玉座に座った。
アヌンナ、
七人の裁き手たちは、
彼女の前で裁きを下した。
彼女へ向けられたのは、
死のまなざしであった。
彼女に告げられたのは、
病をもたらす言葉であった。
彼女に発せられたのは、
「それは罰だ」という叫びであった。
彼女は打たれ、
イナンナは打ちのめされた肉の塊となり、
その亡骸は鉤に掛けられた。
訳注
1|164行は、第5場面の直後そのもの
164行は、新しい出来事が唐突に始まるのではなく、第4場面の命令と第5場面の七門通過の帰結です。Attingerも、ここを「幾度も身を屈めさせられ、剥ぎ取られたのち、彼女がエレシュキガルの前へ連れて来られる」と整理しています。
第6場面は短いですが、第5場面の終点として読んでいきます。
2|「エレシュキガルを玉座から立ち上がらせた」は、重要だが難しい箇所
165–166行は、原文上、イナンナはエレシュキガルを玉座から立ち上がらせ、自らその玉座に座った、と読むのが通例です。
ただし、エレシュキガルが自ら立ち上がったのか、イナンナによって立たされたのかは研究上の議論があります。Attingerは、文法面に難しさがあることを認めつつも、文脈上はイナンナが姉をその座からどかした、と理解する方が有力だと述べています。そこで本文でも、その方向で訳しました。
3|167–170行は、誰が何をしているのかが少し難しい
「七人の裁き手アヌンナが裁きを下す」こと自体は確かですが、
- 死のまなざし
- 病をもたらす言葉
- 「それは罰だ」という叫び
を、アヌンナが向けたのか、エレシュキガルが向けたのかは、読みが難しいところです。
Attingerは複数の可能性を比較したうえで、翻訳では「アヌンナが裁きを下し、エレシュキガルが視線と叫びを実行する」という理解を採っていますが、完全に確定しているわけではありません。
そこで今回は、主語をあえて強く固定しない訳にしています。これは意訳ではなく、原文の難しさを日本語側に残すためです。
4|「怒りの言葉」ではなく、「病をもたらす言葉」
ETCSLでは “speech of anger” と訳されていますが、Attingerは、ここを単純に「怒り」とする根拠は薄いとし、「病をもたらす言葉」*の方向で解しています。フランス語訳では、腹を病ませるような言葉、といったニュアンスです。
そのため本連載では、これまでの方針どおり、感情語にまとめすぎず、身体に何かをもたらす言葉として訳しました。
5|最後は「死体」よりも「肉の塊」に近い
171–172行は衝撃的です。ETCSLは “The afflicted woman was turned into a corpse. And the corpse was hung on a hook.” とまとめていますが、Attingerはここをより生々しく、「打ちのめされた肉の塊」のように訳しています。また、最後の吊り下げ先も、写本によっては鉤だけでなく、梁のようなものを示す可能性が議論されています。
ただし、本連載としては、一般に理解しやすく、かつ通例にも沿う形で、「亡骸は鉤に掛けられた」を採りました。
この場面で起きていること
事実として原文上確実なのは、ここでイナンナが
- エレシュキガルの座に触れる動きをし、
- 七人の裁き手アヌンナの裁きを受け、
- 死のまなざし・病をもたらす言葉・罰の叫びにさらされ、
- 最後に死に、鉤に掛けられる
という流れです。
解釈として言えることは、この場面が単なる「罰」の描写ではなく、神話全体の最深部を形成しているということです。
第1場面で始まった「大いなる上方から大いなる下方へ」という運動は、ここでついに極点に達します。しかも、この死は終わりではなく、次の第7場面以降の救出と回復の起点になります。したがって第6場面は、イナンナの冥界くだりにおける軸になる場面でもあります。