この物語は、一枚の完全な粘土板に残されたものではない。現在読むことのできる『イナンナの冥界下り』は、古バビロニア時代を中心とする複数の写本・粘土板断片を研究者が照合して再構成した「複合本文」である。
ここでは ETCSL(Electronic Text Corpus of Sumerian Literature)c.1.4.1 “Inana’s descent to the nether world” の行番号を基本とし、シュメール語本文、ePSD2の語彙情報、およびPascal Attingerによる校訂・研究を参照して日本語訳を作成している。
読みやすさを優先しているため、日本語本文では細かな写本差をすべて挿入せず、重要なものを文末の訳注で示す。
第7場面 三日三晩

ここから物語は、冥界から再び地上側へ視点を戻します。
第2場面でイナンナから託された言葉が、ここでそのまま実行されます。ETCSLでは173–225行に、ニンシュブルの哀悼、エンリル・ナンナへの嘆願と拒絶、そしてエンキによる救済の開始までが置かれています。
〔シュメール語本文 173–225行〕
三日三晩が過ぎた。
イナンナの忠実な使者、
ニンシュブルは、
女主人の言葉を
心に留めていた。
美しい言葉を語る使者、
確かな言葉を運ぶ使い。
彼女は、
託された言葉を忘れず、
その命令をなおざりにしなかった。
廃墟の丘で、
イナンナのために哀歌をあげた。
玉座の間で、
彼女のためにバラグを響かせた。
神々の家々を、
ひとつひとつ巡った。
イナンナのために
目を掻き傷つけ、
鼻を掻き傷つけた。
人には語られない身体のところも
傷つけた。
何も持たぬ者のように、
ただ一枚の衣をまとった。
そして、ひとり、
エンリルの神殿エクルへ向かった。
エクルに入り、
エンリルの前で涙を流した。
「父なるエンリル。
あなたの子を、
冥界で誰にも屈服させないでください。
あなたの美しい銀を、
冥界の土と混ぜ合わせさせないでください。
あなたの美しいラピスラズリを、
宝石細工師のほかの石とともに
切り分けさせないでください。
あなたの美しいツゲの木を、
木工師のほかの木とともに
切り裂かせないでください。
若きイナンナを、
冥界で屈服させないでください。」
しかし、父なるエンリルは、
怒りをあらわにして
ニンシュブルに答えた。
「わが子は、
大いなる天を求めた。
大いなる下方をも求めた。
イナンナは、
大いなる天を求め、
大いなる下方をも求めた。
冥界の〈メ〉は、
求めるべきものではない。
そこへ至った者が、
どうして再び
上って来られるというのか。」
エンリルは、
このことに力を貸さなかった。
そこでニンシュブルは、
ウルへ向かった。
エムドゥクラを経て、
ナンナの神殿エキシュヌガルへ入り、
ナンナの前で涙を流した。
「父なるナンナ。
あなたの子を、
冥界で誰にも屈服させないでください。
あなたの美しい銀を、
冥界の土と混ぜ合わせさせないでください。
あなたの美しいラピスラズリを、
宝石細工師のほかの石とともに
切り分けさせないでください。
あなたの美しいツゲの木を、
木工師のほかの木とともに
切り裂かせないでください。
若きイナンナを、
冥界で屈服させないでください。」
しかし、父なるナンナも、
怒りをあらわにして答えた。
「わが子は、
大いなる天を求めた。
大いなる下方をも求めた。
イナンナは、
大いなる天を求め、
大いなる下方をも求めた。
冥界の〈メ〉は、
求めるべきものではない。
そこへ至った者が、
どうして再び
上って来られるというのか。」
ナンナも、
このことに力を貸さなかった。
そこでニンシュブルは、
エリドゥへ向かった。
エリドゥに入り、
エンキの神殿へ行き、
エンキの前で涙を流した。
「父なるエンキ。
あなたの子を、
冥界で誰にも屈服させないでください。
あなたの美しい銀を、
冥界の土と混ぜ合わせさせないでください。
あなたの美しいラピスラズリを、
宝石細工師のほかの石とともに
切り分けさせないでください。
あなたの美しいツゲの木を、
木工師のほかの木とともに
切り裂かせないでください。

若きイナンナを、
冥界で屈服させないでください。」
父なるエンキは、
ニンシュブルに答えた。
「わが子は、
なんということをしたのか。
私は心を痛める。
イナンナは、
なんということをしたのか。
私は心を痛める。
すべての国々の女主人は、
なんということをしたのか。
私は心を痛める。
天なるアンの聖なる女は、
なんということをしたのか。
私は心を痛める。」
エンキは、
その爪の先から
わずかなものを取り出し、
そこから
クルガラをつくった。
もう一方の爪からも
わずかなものを取り出し、
そこから
ガラトゥラをつくった。
クルガラには、
生命の草を与えた。
ガラトゥラには、
生命の水を与えた。
そしてエンキは、
二つの存在に言葉を告げた。
訳注
1|「三日三晩」は、すべての写本で一致しているわけではない
ETCSLの複合本文では、「三日三晩が過ぎた」となっています。
しかしAttingerが整理する写本差では、ある写本は「七か月」、別の写本は「七年、七か月、七日」に相当する読みを示します。したがって、「古代シュメールのすべての伝承で必ず三日三晩だった」とは言えません。
本連載では、ETCSLの複合本文に従い三日三晩を本文に採用します。
この異文は、7という数字のもつものを考慮すると、資料としてかなり興味深いものだと思います。
2|ここは、第2場面の言葉がそのまま現実になる
176–189行は、第2場面でイナンナがニンシュブルに命じた内容をほぼ反復します。
哀歌をあげる。
バラグを響かせる。
神々の家を巡る。
身体を傷つける。
一枚の衣をまとう。
そしてエンリルへ行く。
つまり第2場面は単なる「別れの会話」ではなく、未来に実行される行為をあらかじめ語った場面だったことが、ここで明らかになります。
そして第2場面で設定したニンシュブルの「言葉を正しく受け取り、正しく運ぶ者」という性格が、ここで完全に回収されています。
3|エンリルとナンナの返答は、「冷たい拒絶」と単純化しない
エンリルとナンナは、ニンシュブルの願いに応じません。
ただし原文は、単純に
「助けたくない」
とは言っていません。
二人の神が語るのは、
イナンナ自身が大いなる天と大いなる下方を求めたこと、そして冥界には、一度入った者をそのまま帰すことのできない秩序がある
ということです。ETCSLはこれを「冥界の神的力を得た者はそこに留まらなければならない」とかなり明確に訳し、Attingerは写本差を踏まえて、より慎重な修辞疑問として読んでいます。
したがって、ここでも「エンリルとナンナは意地悪だから助けなかった」という心理には還元しない方がよいと考えます。
4|第1場面の「大いなる天/大いなる下方」が再び現れる
物語冒頭でイナンナは、
大いなる天から、大いなる下方へ
心を向けました。
そしてここではエンリルとナンナが、
「イナンナは大いなる天を求め、大いなる下方をも求めた」
と、その下降を別の立場から語ります。これは心理学的解釈ではなく、原文そのものにある反復です。
5|エンキだけが反応を変える
エンリルとナンナは、ほぼ同じ言葉を返します。
ところがエンキだけは、「イナンナは何をしたのか」と繰り返します。
ETCSLはこの後半を “She has me worried” と訳し、Attingerは文字通りには「彼女は私を疲れさせる/私はこのことで疲れている」に近い可能性を示しています。
本文では日本語として、「私は心を痛める」としました。
これは厳密な一対一訳というより、原文の反復が持つ「エンキ自身が動揺し、関与し始める」ニュアンスを読みやすくしたつもりです。
6|クルガラとガラトゥラとは何者か
ここでエンキは、自らの爪のところから取ったものを用いて、
クルガラ
ガラトゥラ
という二つの存在をつくります。
ETCSLとAttingerでは名称の転写・説明に若干の違いがあり、ガラトゥラを「若い祭儀歌手」のように訳す研究もあります。でも、その存在の性別・身体・社会的身分を現代語で完全に固定すると、かえって原文から離れる可能性がありました。
したがって本連載では、
〈クルガラ〉と〈ガラトゥラ〉という二つの存在
として扱い、第8場面でその働きを見ていくのがよいと考えました。
7|「爪の垢」から生命の救済が始まる
Attingerの校訂では、エンキは爪の下/爪先にあるわずかな汚れを取り、それから二つの存在をつくったと読まれています。そしてそれぞれに生命の草と生命の水を与えます。
原文上まず確認できるのは、
壮麗な神的素材ではなく、ごく小さな、取るに足らないようなものから救済者が生み出される
ということです。
これは心理学的・神話学的に考える価値のあるモチーフとなってくると思います。
この場面で起きていること
第6場面では、イナンナの物語は完全に止まりました。彼女自身は、もう何もできません。
ところが、地上には、彼女の言葉を覚えているニンシュブルがいます。
ここで物語の主体が一時的に移ります。
イナンナが救い出されるために必要だった最初のものは、
武力でも、
女王の装身具でも、
〈メ〉でもなく、
彼女が誰かに託しておいた言葉と、それを忘れない者の存在でした。これは原文から一歩進めた読みですが、第2場面と第7場面の構造的対応から十分に導けるものだと思います。
そしてニンシュブルの働きによって、ようやくエンキが動きます。
ここで、
死 → 嘆き → 訴え → 応答 → 救済の準備
という、物語の方向転換が始まります。
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