第5期生色の本質マスター講座が始まりました。
2021年が過ぎ行き、2022年に入っても、私は例に漏れず、1つのことしかできないぱっとしない人間であることは、41歳を超えたとしても、なんら変わりませんでした。
ある日朝起きたら、すっきりした人間になっていた!なんてことはないだろうことも、ここまで生きていたらわかってしまえます。なのに、夢をみてしまいます。だから認めますが、私はある意味で、とても歪で混沌とした人間なのだと思います。
文明の発達に片足はつっこんで、進歩の恩恵をうけているのだけれど、
どこか魂レベルで、「自然」ということの圧倒的な途轍もない力と向き合い、「混沌」の中を、いや、きっと「本来の生」を、生きなければならないと思っているのだと思います。
自分という人間を生き抜くための創造的なエネルギーは、葛藤の中に身をおくほどに強く出てくるのではないかと私は思っています。光と闇という正反対のものの調停としての夕焼けや朝焼けは、言葉にならない、てんで散り散りになっていた日常を、涙1粒に集約して流してその一瞬でも解決してしまえます。包もうとするもの、一体なろうとするもの、との関係性は私の創造の足場です。
私には1つやっておきたいことがあって、色の本質を探究していく場をもつということです。
その色の本質への探求過程が、自然と人間との結びつきを回復することになっていったという18年近くの心理支援現場での体験を、現代にしっかり残したいということです。
書籍や文章で残すことの前に、できる限り現代人の「こころ」を通りながら、それらが研ぎ澄まされ、余分なものを払い落とし、純化されたものになっていく必要があるのだろう、と思っています。ゲーテも60歳頃に色彩論を書き上げたようなので、私もその頃には何か1つ、形に残せたらいいなと思ったり、もっと急げと思ったり、私の中にいる他人は時にとてもうるさいです。
色の本質マスター講座に来る人たちは、私と同じように、人生を歩む道中で、「色ってなんかあるんじゃない?」とか「色なんじゃない?」というような、人が生きることの何某かの鍵になり得る「色」への確信を、積んできています。どこでそれを積んだのか、その具体性を隠してしまえるところが色の正体で、彼らは光でもあるけれど、闇でもあります。そこにある期待と、少し先が見えそうな視界を共有してゆくためには、正直に言うと、新しい事を着込んでいくことより、着込んできたものを脱いでいくことの方が大切なのかもしれません。いろんなことを身につけてきた、いろんな情報をインスタント回答で知ることができる、そのような着膨れを脱ぎながら、裸の自分で何を感じるか、自分で考えることが、色の本質をマスターしていくことのための近道になるのかもしれない、と思っています。
第5期生の第1回目授業が1月中旬に始まり、彼らの感想文がまだあがらない中で、きっと言葉にならないことを巡らせたり、わからないことや、学び始めたことが不安になってきたこと、が彼らを捉えているのかもしれないと思います。自然の地下水や心の源泉となるものを学ぼうと思えば、その強さや大胆さにたじろぐこともあるだろうけれど、この講座を選んだ彼らの道や魂を信じて、ぜひ臨んでもらいたい、一緒に歩ませて欲しいと願っています。
つらつらと書きました。
また書きます。
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