「自然界に存在しない色はあるのか?」というテーマで少しだけ書きたいと思います。
みなさんはどう思われますか?
自然に存在しない色
ズバリ、結論からお話すると、自然界には存在しない色は白と黒があげられます。
なぜでしょうか。
白と黒は「無彩色」だとされていますが、
そのような人間が作ったカテゴリーだけで説明することは、ここでは意味がありません。
「色がない」ことを説明するのではなく、
「自然界には白と黒が生まれるはずがない」ということが重要です。
それを説明するためには、
「自然」がどのようにはじまり、作られたか、
そして、そこにどのように人間が関わってきたのかということが鍵になってきます。
全き光、全き闇と人間
人間だけではなく自然界の生命は、全くの光の中では生きることができません。
それと同じように、全くの闇の中でも、生命は生きていくことができません。
ただし、それを証明すること自体も私たち人間には不可能です。
なぜでしょうか。
なぜなら、全くの光や闇ということを我々人間が実現することが不可能だからです。
私たちが生活しているこの世界は、光と闇の中間に位置します。
どうあがいても、どれだけ明るい場所や暗い場所であっても、
この世界である限り、光と闇の両方を含んでいます。
白は、本質的には「光」と同義(同じ意味)だと考えることができます。
黒も、本質的には「闇」と同義です。
つまり、「白」は闇のまったくない光を表し、それは、色にはなれません。なぜなら色は光と闇の境界にできるからです。
同じように「黒」は、光のまったくない闇を示し、色ではありません。
白や黒は、「光」や「闇」として、霊的で神性をもった「自然」です。
そして無限者の象徴でもあります。
「意識」が生まれない
私たちは光と闇が織りなす中間世界で生活しています。
創世記や各地の神話などで、この世界が誕生するときも、1つだったものが2つに別れる(世界両親)ことで、創造が始まります。
人間の小宇宙も、意識と無意識の2つに別れることで、自己の創造が可能になります。
もし、「光」1つしか与えられていないとしたら、
私たちは「眼」という器官すら作ることができないし、「意識」を作ることもできません。
光があたって、そこに「影」が生まれなければ私という存在は地に足がつきません。
光と闇という宿命的で離れることのできない2つという関係性をもって、生命は巨大な営みを回し続けます。
白か黒かではない、「くもり」の上に立つ人間
私は色を本質的なところから見つめてゆくことが仕事です。
自然界の摂理や自然が創造をやめない仕組みから
色の1つ1つを紐解いてゆきます。
そうすることで人間が自然との結びつきを取り戻してゆきます。
学問は自然に還るべきだと思っています。
自然科学のイメージが強い我々日本人からは、一見して色を分解して考えてゆくような学問だと思われがちですが、色彩自然学では色を分解することはしません。色や自然を分解できるものだと思っていないからです。
「自然」は生きていて、流れ去ると同時に作り替えてゆく力をもつものです。
生物学の研究者である福岡伸一さんが「動的平衡」という言葉を提唱されています。
ゲーテも色を自然が見せる姿としてとらえ、自然の「動的生命」を「色彩環」を通して示しました。
私たち人間は「メカニズム」と言う言葉をよく使いますが、人間には「メカ」と呼べるほどに機械的な部品の集合ではありません。
それぞれが揺らぎをもって動いていて、不確かさを持って流れています。
例外なくいろんなものが流れ去り、作り替えられてゆく中で、全体として完成を目指して生きています。
そんな更新が繰り返される中で、「私である」という意識が保てることは、素晴らしい自然の技です。
福岡さんが言うには、「数年前の自分は別人で、もういない」そうです。
それなのに、私が私であることを私は知っています。
全体との結びつきという総合の中で、部分部分が作り替えられてゆく。まるでジグゾーパズルのようでもあります。
話が深み入っていきそうなのでここでやめますが、
そのようなためには、「くもり」が必要です。
「白」や「黒」ではない「くもり」の世界であることが、
揺らぎ、止まり、上昇や下降、作り替えができる、不確かな土壌を可能にしてくれます。
「くもり」には自由が与えられています。
「白」や「黒」は私たち生命にとってはあまりに完全で、自由ではないのかもしれません。
まとめ
いかがでしたでしょうか。
色彩自然学という分野から、自然界に存在しない色とは何色か?について、
少し語らせていただきました。
興味がある方はぜひ、学びにいらしてください。