”魂を知ること”と色彩自然学

色彩心理をふくむ色彩自然学のこと

”魂を知る”こと、など到底できるはずはないのだけれど、その到底できるはずのないものを追いかけてみたいと思うのが人間の厄介なところではないだろうか。私は少なくともその厄介な側の人間だ。生活が多少困難になろうとも、到底できるはずのないことに命を使ってみたい。

色を知ることと、魂を知ることはやっぱり似ていると思う。
色を知ろうとすると、どうしても人の心の全体が関わってくる。
だからおのずと、”色彩自然学”は色彩心理の領域を濃厚に含んでいくことになる。

魂を知るなんて不毛なこと、どこまでも不確かかもしれないこと、と片方の頭はわかって言っている。科学的態度というか、現代を生きる人間であれば、怪しいもの、頼りないもの、わけのわからないもの、幽けきものと距離を置くことが常識的態度であるだろうから。
でも、もう片方の頭は、魂を知ることを渇望している。それは理屈ではなくて。
それは、私が持っている、あなたが持っている、大切なあの人が持っているもので、心の現象や体の現象、生きることに影響していて、生命記憶のような深みから突き動かしている何かだからだ。
まるでマグマのように地底深くで、確実に私たちをとらえている。誰か大切な人が亡くなってもなお、その人をそばに感じることがあるならなおさらだ。

”魂”を知る学び

”心理学”は”psychology”であるから、”psyche”、つまり、本来的には”魂の学”である。

意識の現象や、行動のことを心理学で学ぶことが多いのが、私の学生時代の気がかりだった。
”心”というものの探究は、もっと震えるほどわけがわからなかったり、
ええ〜!と思えるほどの驚きだったり、
コントロールしよう、などと思うことができないことを学ぶ分野であってほしかった。
現に芸大時代の友達がそのような”心”だったし、私自身もそのような”心”だったから。
あるときはとんでなくみっともない一方で、息をのんでしまうほど美しいなと感じることも”こころ”だった。

宇宙を知るほどのことが、そこに込められているはずだ。

”心”のことを”小宇宙”と読んだのは、誰が始めたのだろう。
なんとすばらしいセンスなんだろう、と思う。”心”が”小宇宙である”と聞いた時から、私は幾分か救われてきた。
言葉というものは、その実に相応しい、その本質に相応しいものであると、大きな威力を発揮する。

科学しない心理学の価値

自然とともに生きること

科学であることを目指した「心理学」は、意識や行動のエビデンスを求めて、人間の都合のいいところで有用性を高めていくために活用されていく。でも、これだけでは、自然が壊れていく。人間が自然を把握できる、操作できるとする立場が、自然との共生を一層困難にしている。
心の宇宙を認めることも、自然と共に生きるこれからの未来に必要ではないだろうか。

私が提唱した「色彩自然学」は”自然の摂理を知ること”に重点を置いた。

なぜ色にそのような力や象徴があるのか、
なぜ色によって心が癒されるときがあるのか、
答えは全部、自然界の中にあるのではないか。
色を知ることはすべて、自然と対話することで進んでいくからだ。

色は、宇宙のことばだから、
まるで魂を語ることのように色を語ることができる。

自然と対話すること、私の”こころ(魂)”と対話することは、
同じ世界線にあるのではないだろうか。だとしたら、
自然と共に(尊重して)生きることは、私の”魂”と共に(尊重して)生きることではないだろうか。