花が開くところを撮影した。
それはどこか
「手放すこと」に似ているように感じて仕方がなかった。
まるで渦のように螺旋状につぼんでいたものが、巻き付きがほどけるように咲いた。
柔らかく曲線的に開いてゆくさま、ようすには
女性的なものを感じざるを得なかった。
すべての植物は、根から上へ雌雄両性を一身に具現し、ひそやかに結びつていると表象し得る
『ゲーテ全集 第十四巻』
どの植物にも、その中に
「男性的なるもの」と「女性的なるもの」が働いていると
ゲーテは観察している。
それは私たちひとりひとりにも
与えられた性だけではなく「男性性」と「女性性」の両性が
与えられてあることと同じように。
擬人化して自然をとらえることは、
ゲーテの常套手段であるが、
私たちが自分を超えたところで大いなる自然と結びつき、
本質的なものへと接近するには、
このように対象に即してものを見る見方が非常に重要だと学べば学ぶほどわかってくる。
植物に起こる垂直と螺旋の運動
植物におこる垂直傾向と螺旋傾向をゲーテは観察した。
垂直傾向においては、
現存在を基礎づけ、それを長期間にわたって保存ですることのできる精神的支柱と見做される….
『形態学』ゲーテ
ものである。
つまりは、樹木であれば「木質」を作り、持ち堪えたり、時がくれば硬くなったり、存続できるものを生じさせる。
かたや螺旋傾向においては、
そのようなものとして過ぎ去るもの….
『形態学』ゲーテ
とされている。
形成し続けたり、繁殖したり、養ったりするものを生じさせる。
これら2つの傾向は、永遠に一緒にあって、交互作用し二重運動している。
植物の形成は収縮と拡張の運動によって生まれてゆくが、
現在の状態を維持し続け、頑固でいる努力が男性的垂直傾向であり、
絶えず変化に対応しようと巻き込まれようとしている努力が女性的螺旋傾向であると考えるとき、
茎を形成するときには男性的垂直傾向が、
そして花開くときには女性的螺旋傾向が、
1つの植物においても垣間見えるということである。
これは色の本質でいう「黄」と「青」の根本現象にも対応している。
手放すとき
花が開くことをや植物のことを考えながら、人生にもいろんなときがあるなと思う。
自然散策を続けていて思うことは、出会いたい自然現象に出会えるわけではない。
自分の中に「ないもの」には出会えない。そんな気がする。
タイムリーなものと出会い、心を揺らされる。
今どんなときを生きているだろうと考えてみて、
花が開くときの手放す感じが、今なのだろうなと思い当たる。
私はきっと、今までやってきた過程を信頼する必要がある。
信頼することで、手放せるのかもしれないから。
やってくる出来事を
ただ見つめ、それとの関係に入る覚悟を
しなければならないんだろうなと最近思う。
今回のことは、蕾から花を開くまでの私の体験そのものに
なってゆくのかもしれない。