燕が数匹で夕空を円を描くように飛んでいるのを見た。そうか、春なんだな、と思う。
ちょうど彼らは南からやってきたところなのだろうか。
私は桜が咲くころが苦手だ。桜はとてもきれいだと思う。でも、この時間が苦手で。それがなぜかがわからないのも、それでいいと思っている。わかることがあれば、それもいいと思っている。
最近は少し閉じた時間を過ごしていた。世界は戦火の中にある。
報道を見たくない、ニュースを見るたびに傷つく。でも、世界で起こっていることは、私の中の世界のことでもあるのではないか。
スポーツ観戦をして憤りをあらわにしていた彼らに、大学の頃の私はまったく馴染めなかったけれど、今の私は、腹の底からこみあげてくる怒りがある。理由をつけて、まるで神のように多くの生命を左右している私利私欲に、きっと腹が立っているのだと思う。
どこかの国だけが栄えればいいというのではない、足るを知る心がないのではないか。
「豊かでないのは他の国のせい」ではない、今がじゅうぶん豊かであることに気づかないことがあるのではないか。
そうやって誰かに投影しながらふつふつと思う事柄を、自分に1つ1つ返しながら過ごしていると、蕾のような時間になっていった。桜のようにしっかり咲けるのだろうか。できることなら私は、燕のように飛びたいのだが。
上に立つ人間というのは、ほんとうにいろんな知見が必要なのだと思う。
私もいくつかのことを責任をもってやろうと思っているが、それに相応しいだけの人間力があるのだろうか、役不足だ、といつも思っている。自信があること、と自信がないこと、は、矛盾しているけれど両方同時に、自分の中で蠢いているのだと最近思う。
1つの国の話もそうだけれど、自然界の1つ1つの生命たちは、みなそれ1つだけで今を生きられるわけでは決してない。とるにたらないささやかな菌類も、1ついなくなると生態系は崩れて、ひいて私の在り方すら違ってくることになる。
私は足元で、私と関わってくださる方々と、そういった結びつきを尊重して生きていくことをやる。
誰からも称賛されないことであっても、誰からも見えないものであっても、仕事とはつまるところ、そういう生きるために必要な活動のことではないだろうか、とずっと思っている。
時代に呼応する仕事があっていい。でも、自然と呼応する仕事も成り立っていくことが、われわれの生の本質ではないだろうか。
久しぶりにコラムを書くと、こんなふうになってしまった。
さて、2025年の大学の色彩自然学講義も終了し、また新入生たちが入ってくる時期になっている。今年も後期に色彩自然学を開講するので、どうなることだろう。
色の本質マスター講座に関して
『色の本質マスター講座』は、パーソナルレッスンに切り替えてから少しずつ申し込みをいただくことになって、忙しくなってきた。ひとりひとりに、対話的に進めてゆける時間になっているだろうか。


このように写真掲載を許可してくださっている方に、感謝している。
かけがえのない1つ1つのレッスンに、受講されている方の生きてこられた背景や、感じ方、が共鳴していき、疑問なども生まれ、レッスンとレッスンの間の時間で生活をくぐらせていくことも通して、彼女たちが醸造したワインのような学びを受け取っておられる気がしている。言い過ぎだろうか。
胸の奥を照らし合いながら、色の仕事を見つけていく作業は、とても楽しい。
色が私と関わりのないもののようなふりをしていたら、いつまで立っても遠い記憶物になるけれど、我々の中に色の仕事も息づいている、と感じてみるだけで、ずいぶんと色が、私が、生きてくる。
どのようなエールを色が送ってくれているか、そのようなことを私たちはいつもどこかで感じている。朝起きて手にとるシャツの色。朝食べようとするサラダ、ごはんやふりかけ。この色はやめとこうかな、とか、この色ならまあいいか、とかどこかで感じている。意識しないところで、選んでいる。
色を仕事にする人、色を大切だと思う人にとって、一度学んだらそこから十分に考えを展開できるようなそんな学びが、ゲーテの色彩論やユングの元型論にあると私は思っている。
自発的に、考えることをやめてはいけない。自分でワインを作ることをやめてはいけない。自分のアレンジメントをやめる必要はない。生きるということは、あらかじめいただいている礎を、多様に展開していく作業なのだと思う。
色Re.コミュニティーに関して
上のような記事を最近投稿したが、色Re.コミュニティーは、私にとって、
力をぬいて継続的にやっていきたい”場”だ。
循環生活の足音、等身大、”自然とともに生きる”ということが、感じてもらえる”場”にもなるのだと思う。イベントも少しずつ始めていて、今はまだ2ヶ月。これからどのような場に生き動いていくのだろうと楽しみにあたためていきたいと思う。
一定の熱があって、それをもってあたため続けることが、私の仕事だと思っている。
参加者にとって、そのような場があることで、孵化するべき時に孵化できるように。意味深だろうか。
ただ、私は、誰に対しても熱を注げるようなできた人間ではないので、参加には限りを持たせてもらっている。私の知っている人、同じ志を持っている人、など。兎にも角にも、知り合うことが前提となる。そして、いくら入りたいと言われても、私のコミュニティーに入っている場合ではない人もいると思っていて。そういう人は断らせてもらっている。自分で場を作り、発信するべき人もいると思う。
農に関して


最近はフィールドワークが、畑作業と重なることが多く、川沿いの生き物や野鳥をおいかけたその足で、畑で作業、ということがある。直通の学校用の電話をかならず携帯しているが、連絡がつかないときは作業しているときもあるので、着信と短いメッセージを残してくださったらかけ直しますのでよろしくお願いします。
学校では元気な土を未来に残すために、自然農を選択して実践中。
地球上から”土”がすごい勢いでなくなっている、という話は、土を研究されている方々が伝えていて、わたしのInstagramでも未熟ながら発信していますので参考までに。(@Nora.zuki)
冬野菜の残渣を細かくして、陽に晒して、腐植として土に還していくことを助けること、が主なる最近の野良仕事だった。畑はじめて4年目になるので、土が裸になっている部分が少なくなった。そうすると、土壌生物たちが行き交っているのが体感的にもよくわかる。ミミズもいてくれて、土も裸土のときよりずっとやわらかくなってきたように思う。ミツバチもブンブン飛んでいる。






色彩自然学の学びの内容にもあるように、できる限り”排除する”方法、”部分”ではなく、生態系をそのままに、全体の循環を尊重することを大切に、引き続き、自然循環農をレポートしていこうと思う。
長くなったけれど、タイトルにある『晴明』は二十四節気のそれだが、清浄明潔の略で、清らかで生き生きとした春をさすという。その晴明が輝くために、泥の中を這いまわっているものたちもあると思っている。それも含めて、晴明なのだろう。
今回はこの辺で。また書きます。
読んでくださっている方、このような面倒くさい文章に付き合ってくださり、ありがとうございます。
励みになります。今後もよろしくお願いいたします。
