私は今43歳。そうらしいけど、43年も生きた実感というのは、あまりない。
確実に体は20代のようには動かなくなっているし、あぐらをかいて立ち上がるときに膝が痛いこともある。いつかの大人たちが、「あいたたたた」とか「よっこらしょ」とか言って、立ち上がっていたあの大人が、さながら今の私なのだろう。

緑の濃ゆさと白や黄のコントラストが、”夏”を知らせる

心で知ろうとする自分の生

先の目標ばかりに自分を押し当てていくようなことはなくなった。
誰かと自分とを比べてみて憂鬱になることも全部なくなるものではないけれど、おそらく楽になってきた。
その憂鬱を黒雲のようにもくもくと作りだすのが、私の中に巣食っている誰かのものさしだということを、少しずつわかるようになってきたのだと思う。

若い自分というのは、頭で「わかった」と言っていても本当にはわかることが難しい。
心がそれをわかっていないから。
心で、体でわかると深くで知れて、生き方に響く。

年齢に対する私の実感は浅くとも、年相応にやれることが変わってきていることはなんとなく知れてきた。
いろんな事情がおこって、1つ1つ、今足元にやってくることにしかエネルギーをさけないことが多くなる。でも、まだまだやるべきことはたくさんあって。
そういった葛藤の中で芽生えていく諦念のようなものが、丁寧に生活することを省みるきっかけになっていく。
たとえば、いただいた野菜は無駄にしたくない、どうやって下ごしらえして料理したらおいしくいただけるだろう、それを考えていると今日の夕飯や体に入っていく栄養や喜びが起こる。大袈裟だけれど、そんなふうな足元に転がるものを拾い上げていくことの積み重ねが、人生になっていく。それでいいのではなかったか。そうやって生きていたら、どれだけ周りを大切に思いやることができるか。そして、そういったことを私は私の人生の前半で、どれだけ蔑ろにして生きてきたのだろうか。
生命にはとおる”道”があり、手の隙間からこぼれ落ちる砂のように、どうしようもない時間もきっとある。先ばかり見ていると、”今”を生きられなくなってしまう。でもそうやって、今を生きられない私から、今の1日1日を生きたい私へと至っていく。

そういったことに取り組み始めると、たとえ先に安定などなくて、ときに言葉も心も天候も揺れっぱなしであっても、それを揺らしている基盤のようなものだけがどっしりと広がっていって、船底が広く構えられていくように感じる。
この船はぐらぐら揺れる航路をゆくことがあるかもしれない。でも、倒れはしない底板があるみたいだから、船旅は続けよう。

冬野菜の残渣が残っている冬畝、この残渣をすべて土にすき込んでいく
すき込んでいる状態
すき込み終わった畝、有機物の分解が土中で促進される

めんどうくさいこと、というのは、まさに私のこういった文章のことで、最初から最後まで読んでみないと何が言いたいかもわからないようなことだと思う。いや、もしかしたら、最後まで読んだって答えがないし、何が言いたいのかわからない人だっているのかもしれない。読む人にゆだねられることもある。
”めんどうくさいこと”の反対は、”便利”、”省エネ”、”タイパの良さ”などがあると考えると、まさしく時代は、めんどうくさいことから離れようとしている時代だと言える。それは、章立てや目次、プロットがはっきりしていて、結論から先に読めたりするような、頭でわかる親切さでできているのだろう。

タイトルにもどるけれど、頭でわかることと、心でわかることは違う。
頭でわかることのために、効率化されたものが求められているのかもしれない。
でも、心でわかること、つまりは、体全部で経験していくような感情をともなう知に至るには、”物語”ということが重要な意味をもつと私は思う。
私たちはきっと、頭でわかることを推し進めるならばその一方で、もっと語らう場についても、増やしていくべきなのだと思う。でなければ、人生が乾ききってしまわないだろうか。

スイカの蔓の行先をそら豆の残渣で誘引する知恵

めんどうくさいとされていることの中には、生命や自然が創造をやめないための混沌としたエネルギーの源泉ようなものと結びつきがある。私の日常でいうところの、調べ物、フィールドワーク、懇親会やシェア会、飲み会、先輩からの誘い、ノートしたものを清書しようと書き写していくこと、衣替え、大掃除、食事をつくること、野菜の残渣を細かく切って土に戻すこと、その1つ1つのめんどうくさいこと。自分の心がそういった混沌に巻き込まれて、自ずから節目を作っていく。今の自分の基盤のようなものが、深みから突き動かされるようにまた更新されていく。その1つ1つの源泉からの結節のようなものが、自分というものを破壊しながら作っていっているようにも感じはしないだろうか。

さらっとやれてしまうことに、心が震えることはあまりない。
ごつっとぶつかって、時間がかかって、違和感が残ったり、苦労したりすることにこそ、心が揺れて。
そのようなことで幹が作りやすくなって、逞しく茎葉が立ち上がっていくのではなかったか。

こういったことを共感するものたちで、土を耕し、心を耕し、いろんな小宇宙を息づかせて、生きていけたらいいなと思う。

小宇宙と色彩

童話づくりから知る私の道
色彩と小宇宙講座シェア会の様子

数回にわたって開催してきた〈色彩と小宇宙講座〉が終了した。そして、シェア会があった。

物語る、ということにあたって、最もチャレンジしてきた講座が、この〈色彩と小宇宙講座〉だったと思う。それぞれに必要な語り口や、キャラクター、試練や救い出し方の物語がユニークにあったように思うし、ひとりひとりの尽きない魅力や、今歩んでいる道などが滲み出ていて、私はその物語を味わう時間を終えることが難しかった。また、「終わることが惜しい」ということを言葉にしてしまうことで、照れ臭いわめんどうくさいわでいろんな気持ちになったように思う。

このメンバーでやれて本当によかった。

また〈色彩と小宇宙講座〉をやる時は、第1期生に引き続き、第2期生となるが、色庭コミュニティーにて募集を行うのでよければ会いましょう。

公認色育士勉強会

専門家としての理論と実践

公認色育士たちとの勉強会を不定期であるけれど開催している。

彼らが運営する色庭コミュニティーが4月の下旬あたりから立ち上がり、自覚が芽生えてきたところで、一緒に研修を行った。何が大切なことだったか、自然の創造性ということを礎に学びなおしながら、色の1つ1つの感じ方にも、心の小宇宙を味わい育む場にも花が咲いていくといいなと思う。

彼らが生き生きと生きていることが、何よりの〈色庭〉の原動力になると私は信じている。

今日はこのくらいにします。また書きます。読んでくれてありがとう。