もうすぐ9月が来る。

朝夕と暑さが和らぎ、少しずつ過ごしやすくなり、外へと広がっていた気持ちがうちへと落ち着き始める頃、ちょうどこの9月のタイミングで毎度の大学の講義がはじまる。200名ほどの生徒が私がやる授業を受けることになる。

そのことを前にして、憂鬱な気持ちも同時にやってくる。今年はオンラインで受け持つことになったから、心配なこともいろいろとある。

「先生」と呼ばれる職業の人たちは、どうやってこの精神を保っていくのだろうか、と大学講師11回の春を重ねても思う。「教える」という立場には、「私は何様のつもりだ」ということをいつも突きつけられる。「先を生きているだけでよいのだよ」とよく言われるけれど、私は”先”すらなんだかわからないし、過去にも今にも、ある意味で手一杯な気がしていて、学生たちより先を生きてきた自信もない。むしろ、”自然”ということを仕事にしているものだから、進化よりも、かつての退化していた頃の中で宝探しをしているようなところがある。
40年生きてみると、きっとこの世界には、真面目にはっきり考えすぎてはいけないこともあるのではないだろうか、とは思えるようになった。薄明の状態にしているからこそ、やっていけることもある。

知れば知るほど、まだまだ知らないことに気づくし、いつまでたってもゴールは見えない。
そしてその、”知らない”ことを知っていることが、 ひょっとして私自身が先生でいるためには、必要なのかもしれない。

年々沈黙が多くなってしまう私がいる。私の声が大きくなれば学生たちの声が聞こえなくなるからだ。

思えばかつて私は大学時代に、めちゃくちゃ眠ってしまう授業があった。先生の淡々と話す声が心地よいのもあった。でもその最終授業で、先生が話をやめて、驚くようなパフォーマンスをしたことに心を打たれて、寝ていた今までを後悔したことがあった。静かに話す人にも、湧き水のような熱い気持ちがそこここに漏れ出している。それがわかる人間でなかった自分のことを、残念に思った。

どうか沈黙が多くても、色や自然を探究する心が、いかに私たちがユニークであることや、多様であることの源であり、生きぬくことを支えてくれるものであるか、そこに感動している私の気持ちが、一端でも伝わりますように。

一体どんな時間を学生たちとともに作れるのだろう。
11年目にして、また1年目のように揺らいでいるではないか。