昔から、
どこかオオカミに惹かれていた私は、大竹英洋さんの写真に出会って、
知らない自然のことをたくさん見せてもらった。

人間が我が物顔で分け入ったような自然ではなくて、
そこにそのまま、ただあった自然が、
そっとその姿を見せてくれているような、そんな写真が好きだった。

大竹さんが教えてくれる言葉の1つに、
「ポーテッジ」があった。

ノースウッズで生まれたカナディアン・カヌーで、森の奥に分け入っていくわけだけれど、

”全ての湖が水路でつながっているとも限らず、滝や急流、浅瀬などカヌーで進めないところもある。そんなときは「ポーテッジ(portage(※1))」と呼ばれる踏み跡を、カヌーと荷物を担いで運ぶのだ。”

出典元:https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b09303/

私は、この「ポーテッジ(portage)」という言葉が、写真とともに忘れられずにいる。
自分の心の風景とマッチしたのかもしれない。

長いカヌーをかついで、誰かがつけた踏み跡を、たどって歩いていく後ろ姿。

「色と自然とこころの学びを開く」ということも、
20年やって思う。
”道”は整備されてあったわけでは決してない。

荒野のような陸地に、さまざまを凸凹を足裏に感じながら、
誰かが通ったような痕跡をじっくり探して、
それが見つかると、やっぱり少し安心して、
カヌーのような水路をゆける道具を背負って
どこへと導かれるのか、
森の奥へと歩いていくように感じる時がある。

今朝は、
無肥料、無農薬でチャレンジしているたまねぎの育て方で、
1つ問題にぶちあたって、それをしばらく解決しないまま抱えていたのだけれど、
偶然出会うおじさんが教えてくれることを
まるで踏み跡のように
すがるようにたどった自分がいた。

本で学ぶことが”理論”だとして、
理論通りにはいかないことがやっぱり”実践”にはある。

”実践”は
生活をくぐらせて、
本当に生きた知恵として実践していくことだから、
”理論”と少し違ってくる。

そもそも、何のために私たちは玉ねぎや作物を育てるのだろう。

生活のためだ。生きていくためだった。

その生きていくための知恵には、
本には載らない黎明期の”くもり”がある。曖昧やいい加減、自然にまかせる、という宝物がある。
その土地、その場所、その季節、その一瞬に合わせた、自然との呼応は、
教科書には載らない、固定できないことだらけだ。

百舌鳥

ふと時間ができて、鳥たちに会いたいと思って、
畑から出て、川へと向かう。
川のゴミを少しだけいつもの場所に拾い寄せる。
寄せても寄せても、
またどこからかゴミが出てくる。

ふと目をやると、小さな個体だったけれど、カワセミがいた。

カワセミ


ジョウビタキはメスもオスもまんまると太っている。

ジョウビタキオス
ジョウビタキメス

カワセミがじっと見つめる川には、小魚がまだ見えない。

亀が水面から顔を出した。

私の心にも誰の心にも、きっとこの冬は少なからず雪が積もって、
凍ってしまった部分があるのではないだろうか。
ポーテッジをたどりながら、自身の中にある寂しさや孤独を、ひしひしと感じ。

でもきっと雪解けは近いのだろう。

鮮やかな季節の足音が、すぐそこに聞こえてきている。