やろうと意志をもって行動しようとすることで
自分の人生が着々とできていくはず、と思っていたけれど、
私たち生き物の生命というのは、
そんなふうにきっと、
操縦できるだけのものではないんだろう。

やろう、やりたい、と思っていても、
”巡り”や”時期”というものが
私たち生き物にはみんなある。

たとえば、蝶々のように飛びたいといくら意志して頑張っても、
青虫のような時代では
それが全身でかないっこなかったりする。

”自然である”という領分を
ときにはみ出したりしながらも、
ある程度故郷のように感じて生きていくことのために
いろんな出来事が用意されている。

些細なことかも知れないが、
私は今朝がた、3年越しくらいに望んだ
コンポストボックスなるものを手に入れた。
いろんな状況が整わなければ
いやきっと、そういう自分自身が整わなければ
それを迎え入れて使える私がいなければ
そうはならなかったと実感してもいる

余命宣告を受けた頃の父にえらそうに
「丁寧に生きるということを一緒にやろう」と言った私は、
まだまだそれがこのことなのか、
どうやったらいいのか、
その延長を生きているのだと思う。

かたや、
まだ暑い、そして少し台風の気配を感じる中、
なぜか畑の種をまきはじめた私は、
種にあえて過酷を強いっているような気がして、
自分を怪物のように感じた。

怪しきもの、弱きもの、目立たないもの
吹けば飛ぶようなものの声は
いつもそこここにある。
そういったものたちとともにいて、
私はやっと生きていける。