大晦日、商店街は人であふれていた。
コロナであろうが、喧騒のただ中にある街が見られることに人ということの強さを感じる。
「安心な未来」なんて、昔も今もこれからも無いのかもしれないと思う。
不安をそこそこ感じながら、どう折り合いをつけながらやってゆくのか。
そんなこんなが、これからの私たちを必要な方向へと押し広げてゆくことになるのだろうと、どこかで信じてきたのが人間の強さではないだろうか。

今年1年を感謝とともに綴ろうと思う。

出来事に押し広げられること

今年1年は、否応なくやってくる出来事に変化を強いられることが多かった。
それは、神戸の震災のときに似ていた。私は被災地真っ只中にあったが、誰かと助け合わざるを得ないことが否応なくやってきた。水もない、電気もつかない、明日も不安なわけだから。
コロナという感染症、肉親の病や死、仲間に訪れた理不尽な出来事、100人規模のオンライン授業、どれも私にとっては「自分の小ささ」や「自分の限界」を感じるもので、心が忙しい日々だったと思う。

それでもこれらの経験がマイナスなことでは終わらなかったし、なんとかそこを打開しようと意識的な私だけでなく、無意識的にも努力していて、
自分の中にうごめいている自然の働きのようなものを、こうも感じられる1年はなかったのかもしれない。

「面倒くさい」を生きる

生きていると、面倒臭い。
ほんとうに面倒なことが起こるし、むしろ、面倒臭いことが起こるように人生は仕組まれていると感じる。
こないだも自分を思い返していて、私はもしかして「面倒臭いこと」にあえて向かって自ら歩いてしまっているのではないかと感じることもあって唖然としたし、関係性の中に絡みとられている自然の生命とは、ほんとうに不思議で未完なもので、全体と関わりなく、面倒なく生きていくことなど到底できないことなのだと実感している。

そういえば面倒なことでもない限り、引きこもりがちな私が、苦しくも自分を押し広げようとする機会はないわけで、
それは一本の植物が、環境の悪さを理由に生きることをやめることがないのと同じだなと思う。
自分の人生の出来事に対して、傍観者でいるのか、それとも当事者でいるのかということを、「せっかくの生命」という点で考えさせられる日々だった。
この「せっかくの生命」という表現は、今年の一年にもこれからにもふさわしい言い回しだと思っている。

「せっかくの生命」

私はそもそも望んで生まれてきたわけではないし、勝手に生まれてきた、と思っている。これは薄情なことだろうか。
望んで親に「生んでくれ」と頼んだわけでもないし、やっぱり何度もいうけれど、勝手に生まれてきたと思っている。
その点でも人というのは、「生きる」ということに対して、まずは自分から「生きる」に関わったり受け止める必要があるのだろうと感じている。
勝手に生きてしまったこの生命を、自分から生きてよかったと感じたり、自分のものだと感じるまでには、相当な出来事や関係性がいるのではないかと思う。
それを、一生かけてやっているのかもしれない、とすら思うときが私にはある。

「せっかくの生命」だから、生きてみたいと経験してみたい、そんなもったいない好奇心がいろんなことに参加するには大切なのではないだろうか。その好奇心を持ち続けられるために、「色彩」というものが私たちに与えられているようにも感じている。

今年1年の感謝

色育士の庭 忘年会

また1つ、また1つと、この学校に足を運んでくれる方々がいる。
大きくなどならなくていいと、「自分の限り」を思うことがありながらも、「せっかくの生命」だから「せっかくの出会い」だからと、規模は大きくなってゆくこともあるのかもしれない。

それでもやっぱり私が追いかけている小宇宙や大宇宙は、いくらやろうとしても尽きない源泉であるから、追いかけ続けるものであるのは変わらない。そんな中、周りの仲間たちが、どんどん自分を押し広げながら絡みとられたり、絡んで行ったりと、受動と能動の動きを繰り返してゆくのを見ていると、「おお、すごいな。変態してるな。」と感じて感謝の気持ちとともに、絡み合いながら変化してゆくことに自分も参入していく勇気をもらえている。

そんな1年だったと思う。

長くなったけれど、
色彩自然学の学校のヘッドのおりーぶ、いずみさん、そして、色育士のみなさん、
色の本質マスター講座を受講してくださった皆さん、体験講座や外部などで出会えた方々、
大学の受講生の皆さん、
みなさんとの時間が、少なくとも私を作っていると感じるし、
みなさんがこの学校を作ってくださっていると感じています。

この1年ありがとうございました。
そして、来年もまた、よろしくお願いいたします。


2021年最後の日まで、面倒臭い文章で通しました。
読んでくださりありがとうございました。