「青」という言葉を知る前に、青を見る
”青”といえば、”冷静”というイメージがあると言う人は多くいる。
赤なら”情熱”、黄色なら”明るい”という具合に。
色彩心理やカラーセラピーの一部では、このように色と言葉を結びつけて理解する場面がある。
もちろん、色と言葉との結びつきを知ることで、活用できる意味はある。
けれど色彩自然学では、その前に
「そもそも、その色は自然の中で、どのように現れているのだろう。」
と考えてみることを大切にしている。
たとえば、青。
空には青がある。
遠くの山をみるときも、青く見える。
夕暮れが深まっていくとき、世界が次第に青みを帯びて見えることもある。
それらをすべて「青は”冷静さ”を表す」という一つの意味だけで理解しようとすれば、
自然の中で起きている豊かな現象や、
自然のほんとうの働きを見落としてしまうかもしれない。
色彩自然学で大切にしたいのは、
「青は何を意味するのか」よりも、
「青は、どのようなときに、どのように現れるのか」
という問いである。
まず自然を見る。
そして、その色がどのようなものと関係しながらどのように現れているのかを見る。
そこから、色について考えていく。
そのために、私は自然を、そのイメージをたくさん描く。
自然は、いつも同じようには現れない
先日、月のある夜と、月のない夜について考えていた。
月が空に見えて、月明かりのある夜には、
道や木々、雲の輪郭が、やわらかな光の中にほのかに浮かび上がってくる。
一方、月のない夜には、視覚から得られる情報はほとんどなくなってくる。
でもそのとき、
世界との関係そのものが失われるわけではない。
むしろ、音や匂い、風、何かの気配といった、
普段は意識の後ろに隠れている自分の感覚や本能的なものが、ひらいてくるように感じることがある。
視覚だけに頼れないぶん、理屈ではないところで夜を感じている自分に出会う。
同じ「夜」であっても、同じ青みを帯びた自然現象の中にあっても、
自然の現れ方は違う。
そして自然の現れ方が変われば、それを受け取る私たち自身の在り方も変わってくる。
色彩自然学では、こうした自然の現れと色との関係性、
そしてそこから生じる心の動きを、丁寧に観察していく。
「見る」とは、意味を当てはめることではない
私たちは何かを見たとき、すぐに名前をつけたがる。
まるでラベルを貼るかのように。
「あれは”空”だ」
「あれは”木”だ」
「あの色は”青”だ」
名前をつけ、言葉で表現することは、世界を理解するために必要なことだろうと思う。
でも同時に、一度名前をつけると、私たちはその名を通して世界を見るようになる。
「これは青だ」と分かった瞬間に、
それ以上見なくなってしまうことさえあるのかもしれない。
だから、ときどき、”知っている”という自分を少し脇に置いてみる。
これは何色なのか。
これは何を意味するのか。
その答えを急がず、
「いま、ここでは何が起きているのだろう」
と見てみる。
するとさまざまな色彩が、固定された記号ではなく、
光や闇、移ろい、時間、距離、温度、季節、生命の状態など、
さまざまなものとの関係の中でその色として現れていることに気づくことになる。
自然を見ることから、心を見ることへ
では、なぜ自然を見ることが、心を見ることにつながるのだろう。
ここは、大切な問いである。
人間は、いくら進化し、文明を進歩させても、自然から切り離された存在になることはできない。
植物が、光、水、季節や土壌などのさまざまなものとの関係の中で姿を変えていくように、
我々もまた、周囲との関係の中で動くことで、心が変化している。
だからこそ、”心”だけを取り出して理解しようとする前に、
自然の中に、全体の中にあってこその心の働きをよく見たいと考えている。
自然には何が起きているのか。
色はどのように現れ、どのように変化していくのか。
その自然の色の現れからみて、我々がその色を手にとるとはどんな時なのか。
そこを丁寧に見ていくことで、人間の内側で起きていることについても、新しい見方が生まれてくることがある。
色彩自然学は、
自然 → 色 → 心
という道をたどりながら、それらをもう一度つなぎ直していく試みでもある。
「もう一度、見る」ということ
色を学ぶというと、たくさんの色の意味を覚えることだと思われることがある。
けれど私は、むしろ逆ではないか、と考えている。
知っている意味をいったん横に置き、
もう一度、自分の眼(まなこ)で見る。
空
植物
夕焼け
月夜
太陽
そこから問いが生まれる。
そして、その問いを持ったまま自然を見続ける。
そうしていると、少しずつ、自分自身と自然との境界が溶け合うようなところで、世界を見る眼そのものが変わってくることがある。
以前なら「青い空」とひとことで済ませていたものの中に、光の違いや、雲との関係や、刻々と移り変わる色が見えてくる。
そして私は、このように自然を丁寧に見ることは、やがて自分自身を丁寧に見ることにもつながっていくと考えている。
何かを感じたとき、すぐに名前をつけたり、良い・悪いと判断したりするのではなく、
「いま、自分の中では何が起きているのだろう」
と、少し立ち止まって見てみる。
自分の心にも、自然を見る眼を適応してみる。
すると、誰かが用意した答えだけに頼らず、
自分で感じ、自分で確かめ、自分の言葉で考える力が生まれてくる。
それは、自分の感覚を取り戻していくことでもあるのかもしれない。
色彩自然学が目指しているのは、色について本質的な力を学んでいくことだが、
たくさんの知識を持つことではない。
自然を見る眼を育てながら、自分自身を見る眼も育てていくこと。
そして、自然と自分とが別々のものではなく、同じ世界の中で生き、
そのものとしての可能性をより豊かな姿で表していこうと変化していることを、
少しずつ実感していくこと。
私は、その先にこの学びの大切な意味があると考えている。
色彩自然学の学びは、
もう一度、自然を見るところから始まる。
そして、自然のもつ大きな道を、色から学び知ることで、
自分自身で自然とともに生きぬいていくことに結んでいく。
色彩自然学では、色を単なる心理的な意味として捉えるのではなく、自然の中で色がどのように現れ、働いているのかを観察するところから、学びを始めます。
自然のかたる言葉としての”色”の本質的な力を探究しています。
