百穀を潤す春雨が降ったこの数週間、
祖母が、息を引き取ろうとしていた。
現実の世界では、
もう会えなくなる。
体や手や顔や、
触れられなくなる。
病院のベッドの上で
意識がなくなっていきそうなばあちゃんに触れて、
コロナでなかなか会えんかったね、とか、
苦しいやんな、熱が高いわ、とか、
大丈夫かー、とか、
まるで私の一方通行なのだけれど、
何度か一方通行ではない感じがして、
その通い合う何かがあると
信じたくなるタイミングで、
涙が溢れていく。
家に帰ると、
なんでかこのタイミングではじめてしまった、
アゲハ蝶の幼虫たちの世話が待っていて。
たくさん食べたあとの糞を
掃除して、新しい枝葉を入れる。
放っておけばいいものを
それが自然だと、自然が一番だと言いながら、
ライムの木にやってきた彼らを
今の私はほうっておけなかった。
私は弱い。
手を出したからには、
最後まで旅立たせたい。
その過程を共にしたかったのだと思う。
彼らほどに変態が激しい生き物はいるだろうか。
次々に三度、四度と脱皮をし、
黒い幼虫が、緑色の青虫になって大きくなっていく。
殻を脱いで、
新しい姿に、何度も目の前でなっていく。
ひたむきに食べて、
おもかげを残しながら生きている。
私にはそれだけで十分だった。
私にも
ばあちゃんのおもかげが宿っている。
ばあちゃんからすれば
私は何度目の脱皮だろう。
いや、ばあちゃんになろうと思ったら、
どれだけ私は脱皮すればいいんだろう。
ばあちゃんは死んでしまった。
でも、あの社交ダンスで軽やかに踊っていた、
ばしっと背中を叩くときに力が強い、
台所にいつも立っていた、ばあちゃんが
私の中に生きている。
今日は葬儀の前日で、ばあちゃんの誕生日。
私は私のやり方で
ばあちゃんと過ごしたいと思い。
ばあちゃんの好きだった花を植えようと思った。
ばあちゃんが好きだったいろんな色の花を、
我が家の小さな庭で。
植えながら、きっと今ばあちゃんは、
いろんなことから解放されているだろうと感じた。
言葉は大切なときほど一言になってしまうけど、
お疲れさま、ばあちゃん。
夏が始まるよ。