カワセミの色彩美を追いかけていたら、夢中になっていて時間も場所もわからなくなっていた。こんなことが私にはしょっちゅうある。小学校低学年あたりから変わらない。
成長志向、近代科学の現代の価値観の上では、”はみだしもの”に分類されているだろう私だが、弱きもの、あいまいなもの、小さきもの、幽けきもの、そんな風に言われるものたちにこそ、社会における乖離したものをつなぐ役割がきっとあるのではなかったか。
さまざまな神話や童話、物語に出会いながら、そんな役割をもつさまざまなものが目に留まるこの頃。
ある講義のなかで描いた私の作品は、”土壌の中で働いている菌”を労う「菌労感謝の日」となった。
昨年、はじめて挑戦した玉ねぎづくりは、ほんとうにひょろひょろで、土と仲良くなることも手探りでまったくうまくいかずだったのだけれど、今年は玉ねぎがとてもよく育ってくれている。緑が生き生きとしていて、何度見ても元気がもらえる。どれだけ雨が降っても風が吹いても、ぴんとして太陽のほうを向いている。学生たちが見習うべきは、私などではありえず、彼らなのだと思う。
「色を知ることは、自然と共に生きることだ」「人は、内なる自然と共に生きていく知恵が必要になる」と言うと「大層なことだ」と誰かは言う。そんなおおげさに言わなくとも、なんとなく身につけていけるものだと誰かは言う。でも、私はそれができなかった。だから、教育に入れていてほしかった。
私の分野における色彩教育の可能性、自然教育の可能性は、22年経ってもやっぱり膨らみ続けていて、AI化が進む現代だからこそ、それを生き抜いていかねばならない子どもや大人たちに必要なものだ。
そういう信念がどうしても強く、私を突き動かし続けている。
自然とともに私も丸ごとで生きたいと始めた畑だが、思うようにいくことなどほんとうに1つもない。生きているものは、刻一刻と自分になろうと変化したり、周りの環境を受けても変化している。止まっていることなど、そう見えているだけで、ほんとうは1つもないのだなと思う。
生きているものをいただくということの重みを、畑をやることで、よくわかるようになった。
自分の手で、土にまいたタネから育っていく生命、実が太ったり、色づいたりして絶頂をむかえた作物は、ちゃんと収穫して食べること。それが、そのものへの供養や感謝になると思う自分が自然に立ち上がっていく。
「いただきます」は
「いのち、いただきます」のことなのだとわかった。
それから食べるものが、愛おしく、美味しい。生きていると実感する。
土がついた野菜を洗う作業、
実と葉をわける作業、
丸ごといただくためには、どうしたら美味しいかを思い描く作業、
1つ1つが、「いのち、いただきます」の姿勢の現れとなってくる。
それをいただいて作る自分たちの体を、できるだけ労ること、尊重することにもつながっていく。
生命はこうやってそのものの中で生き続け、バトンを続けていく。
学生時代にみんなとの合唱で体育館を揺らした大地讃頌の歌を思い出し、歌い出しのあの「母なる大地」。その言葉が今になって心に響き、鍬を降る手を休めて口づさむこともある。たいていのものは、大地からいただいて生きていけるのが人ではなかったか。その土を、大地を、削ったり痛めたりするやり方はもうできるだけやめなければならない。
こんな私の行う大学の講義では、やっぱり似たものが集う、ということもあるのか、色を知る、自然を知ることの好奇心をたんまりと持っている学生がたくさんいるように感じている。彼らとの時間は、心から楽しい。感受性がほとばっしちょる。
一方で、あまり興味のない学生ももちろんいて、オンラインなので、出席したふうに装って、私が騙されている気配もある。でも、私を騙すぶんはまったく私は騙されたい質で、先生には向いていないと思う。騙すなら「ちゃんと騙してくれよ」が約束だと思っている。
ただ1つ思うこともあって、ここでしか伝えられないのだかれど、これから彼らが迎えるだろう大切な人生の出来事において、誰かを騙すことになっても、自分自身を騙さないでほしい、と願ってもいる。自分自身を騙すと、ほんとうにしんどいだろうから。そういえば虫たちは、私の畑で今日も擬態して、騙し合いを続けている。
ようやく、畑の引越し(事情は前のブログを見てね)が終わり、
新しくお世話になる土にも挨拶をし、冬の作物たちがまた育ってきた。
畑仲間のおじさんが、2年ほど前にふと始めた芋の栽培、そのこぼれ零余子から自生した自然薯が、思わぬ場所に自生。それを掘り起こすことに3日かかって、腰が曲がっている写真を撮った。
こんなにしぶとく土中で静かに育っていた芋に、栄養がないはずがないと思えた。
昨年はあまりならなかった実家の柿が、今年はたわわに採れた。柿は磨くとぴかぴかになった。
他にも、体調を崩したお義父さんと冬畝づくりの歩調を合わせたかったが、畑をやる人は、自分のやり方というのがやっぱりあるように思っていて、それも自分の足で歩いて確かにしてきたやり方だから、それを手伝いたかったが大いに空回りしたように思う。それも大切な思い出。
友人の個展に行き、いのちの表現がたくさん詰まったものに心が動いた。
こんなふうにいろんな植物たちの生きてきた軌跡が、花や実りに醸造されていくのだなと思うと、ワインのように渋いものを味わっているように感じて不思議な感覚だった。何度でもこれを見て、その向こう側にあるものを感じられた。
公認色育士たちと勉強会をはじめた。彼らは公認色育士となって8ヶ月になろうとしている。暗中模索の中をいろいろとそれぞれに仕事や家庭、介護などを抱えながら、うねるように自分を生きているように感じる。彼らがそれでも公認色育士として社会活動をしようと思う気持ちは、私と同じ志があるからだ。
色庭コミュニティーで行ったのは、「色彩と物語」の勉強会。1回で終わるはずだったが、物語づくりを行ったため、その物語をシェアしていくことを含めて、2回に分けて展開することになった。私は8パターンの物語とともに3週間ほどの時間を過ごして、夜眠るときも朝起きたときもそれらを読んだりして、とても楽しかった。
色庭コミュニティーに入ってくださる方は、勉強するのが好きだったり、色や自然の話が好きだったりする。彼らには3ヶ月1回ほどのペースで勉強会のようなものを私が主催で開いていきたいと思っている。私は案内人をして、彼らにいろんなことを表現し、学び合ってもらう。その感じる自由を守ることさえできれば、私がほかにできることほとんどないんだと思う。彼らはすでに知っているけど忘れてしまっていたことを、再発見して自覚していく。そうやってこぼれ落としながら生きてきたことを抱きしめて、落としたものをむかえにいって拾い上げて、自分で回復することがほとんどなのではないか。色はその道標になってくれる。
11月は、予定外のことがしばしば起こるなか、”生きている”ことと”生かされている”ことの両方から
柔軟に、大きくしなりながら、軸をもって生きていくことを要求されているように感じた。
11月誌でした。また書きます。
来年から私の主催する〈色のチカラ探究講座〉は、黄色の講座がもう残席あるかないかくらいなのだろうけれど、よろしくお願いします。
最後まで読んでくださりありがとうございます。読んでくださっている方には、ほんとうに畑でとれた野菜を送りたいくらいです。