心に在る自然
生命ある自然のなかでは、全体というものと結びついていないようなことは、何ひとつ起こらない。
引用:『主体と客体との媒介としての実験』ゲーテ
私は、色彩自然学の学校というものを2020年11月に仲間とともに立ち上げた。
それは芸術大学の4年間で、さまざまな芸術のあり方を目の当たりにして、
芸術の発祥が、自然というものを模倣することから始まったことを知ったことが
きっかけだったことを振り返る。
色や形や動きや音というもので表された自然も、人間の創作する芸術も、
同じように私の心をつかんで離さないものだった。
和歌山で見た漆黒の闇に浮かび上がる満点の星空、
奈良で見た手を合わせる行為が自然と出てきた真紅色の夕陽、
言葉をあまり話せなかったあの子が、真っ白な紙を黒一面で塗りたくったこと
病床の父が何度も描いたあの広範囲にわたる強い赤、
神戸淡路大震災の前日に見た赤い月、
どれも私に残る体験は「自然だったんだ」、と理解できた。
私の外で大きな自然は営まれている。
でも、私の中にもそれと同じように、自然が動いている。
人間自体が、自然なんだと感じた。
中でも人間の見せる色や形や動きというのは、
強烈に私の中に残った。
人間は自然に抗する時でさえ、その法則に従っている。
引用:ゲーテ「格言的短詩」
自然に抗して働こうとする時でさえ、自然と共に働いている。
自然とともに生きるということが人類の抱える課題として言われるようになってからの時代しか
私は知らないし、その中しか私は生きていない。
傍観者であることが得意なのが日本人だとゴリラ研究で有名な山際教授はある著書で言っていたが、
私は私を生きるためにも、ゲーテが取り組んだことのほんの一端でも担い、当事者になりたいと思った。
自然とともに生きるということには2つの方法があって、
1つには外との自然との共生という取り組みだと思う。
そしてもう1つは、
「自分の中の自然」とともに生きるという取り組みだ。
ゲーテはあの分厚い『色彩論』を通じて、彼の自然学で科学至上主義に警鐘を鳴らしながら
それを残したのだと私は思っている。
「心」は「自然」という栄養から見る
生命ある自然のなかでは、全体というものと結びついていないようなことは、何ひとつ起こらない。
引用:『主体と客体との媒介としての実験』ゲーテ
私は遊戯療法的展開をしていた遊戯教室で
太陽を黒く塗った子どもを2年担当した。
全体と結びついていない自然は1つもない。
そう言い放っているゲーテの言葉に
太陽を黒く塗った彼を、騒ぎ立てたい不安から距離をとり、
見守り、待つ、私の心が生まれた。
「この太陽は、彼の何かの前提となっている。
どんな時もこの次なるものへと向かう今一瞬である」
黒い太陽を味わう心が、私にも彼にも生まれてきた。
全体というものに向けて、生命が突き動かされていることを実感した。
総合を学ぶことが、色の学び
色は、自分の好きなところから自然の中へ入っていくことができる。
どの色を入り口としても、自然の知恵に到達する。
もちろん、自然以上に自然を語ることなど、できないし、
どんな色の本質の解説も、その色以上に語ることなどできない。
自然そのもののもつ無限性や永遠性や創造性を表現しようとしたとき、
決して統一的でまとまったものはできないんだろうと思う。
でも、点と点とが結びつきながら色彩環という全体がいろんな結びつきの中から見つかるように、
自然の全体性を把握する自然学を学ぶということが、
色彩の本質を学ぶということだと、私は強く思う。
私たち人間のもつ、全体性の欲求や
無意識を尊重し、自我を広く育む勇気とともに。