7人の仲間たちと集まって、描いたものがある。

それはそれは、ゆっくりと時間をかけて、
仲間たちと時間を共有して描いた。

こういう時間を過ごしていると、私たちはいつだって何にでもなれるんだよなと思うことがある。
かつての私が、花や木や風や虫や雷や親父や魔人になって、ぶんぶん振り回していた小さな体も、
今やシワがあり、白髪や贅肉も増えた。

でもその分、精神的に何にだってなれる自由があるのではなかったか。
そういう精神で、あらゆる自然とつながることができるのではなかったか。

思うのだけれど、変な絵だ、変わった絵だ、不健全な絵だ、と言われることがあるけれど、
健全な時期がずっと続いている人間など、ほんとうにいるだろうか。

私たちは本来的に「揺らぎ」を大切に生きているのではないだろうか。
光の時間も闇の時間も揺らいでこそ、呼吸が生まれる。

さて、
蕾だったときは、私たち、いつの頃だろうね。

それはかつての私なのか、今の私なのか、それとも未来の私なのか、
ここに真剣に遊んだ分だけ、
「私」ということの全部が込められていると考えてみてはどうだろう。

そんなふうに、
自分をもう一度抱きしめる、みたいなことを始めてみてはどうだろう。
蕾は、どんな花になっていくんだろうか。
かたく込められたものに
私たちは何を見るだろう。

アオスジアゲハのメタモルフォーゼ

私の家の庭に、ライムの木があって、
多産型のナミアゲハが、それは多くのたまごをうみ、
あまりに葉が少ない若木だったから、ちょっと待ってくれよ
葉を全部食われちゃ叶わんということで、羽化までを手伝うことにした。
結果、20匹が羽化して、我が家の窓から飛び立っていった。

近所から見れば、
「あすこの家の網戸ったら、いつもアゲハ蝶がとまってるのよ奥さん、あれ奇妙よね〜」と
言われているのだろうと思う。

だいたいそういう人生の折には、ことは重なるもので
たまたま歩いていたら、楠(くすのき)の切り株にひこばえがあって、
その数少ない若葉ににアオスジアゲハの幼虫を見つけてしまい、
おいおい、葉が足りんだろうよ、とまた持ち帰って羽化まで手伝うことにした。

そんなこんなが重なって、家には今、
ナミアゲハと、クロアゲハと、アオスジアゲハがいる。
そして先日ちょうど蛹化したアオスジアゲハのこと。

正面から幼虫を見ていると、牛みたいに見えてなんとも可愛らしいのだけれど、
彼らアオスジアゲハは楠(くすのき)の葉しか食べない。

蝶々には食性というのがあって、その木に依存し、深く関係している。

蛹になるまでに数回脱皮をして、
体の水分や排泄をしっかりしてから、蛹化といって蛹になる。

それまで、ひたむきに葉っぱを食べていた彼らが蛹化したら、
もう仮死状態のようになってしまう。
アオスジアゲハの蛹は特にきれいな形をしていて、まるでドラキュラの棺のように感じるほどだ。

次に会えるときは、彼らがアオスジアゲハになって空を飛ぶことになる。

そう、この蛹の状態は、あの蕾と同質のものを感じる。
これが彼らにとっての、蕾なのではないだろうか。

蕾め、メタモルフォーゼへ

なんのためにか蕾む。

それは与えられた自然のやり方ではなかっただろうか。

メタモルフォーゼとは、
すでに私の中に存在しているものが、
中から外へと引き出され、
前方へと導かれるような発展的な変容、形成のことである。

結果、似ても似つかぬような変身が起こり、
自然はみな、青虫が蝶になったり、
何者かになっていく。

私たちはどうだろう。
蕾んでいるとき、周りからはその活動性がわからないし、閉じているように感じるかもしれない。
開いている誰かは、それを見て地団駄を踏んで、開け!開け!と煽るかもしれない。
そういううるさい人が必ず周りにはいる。いや、いてくれている。

でも、ここから学ぶことはあって。
しっかり蕾む花や虫だからこそ、
しっかり開き、翔べるようになることを
自然はいつも伝えてくれているように思う。

私たちは何をそうだなと感じ、自分のこととして学べるだろうか。

体験講座中に羽化したナミアゲハ

体験講座をやっている最中に、アゲハが羽化した。

そこに同席する全員に、
メタモルフォーゼの機会が訪れているのかもしれないと
私は感じたが、どうだろう。

私たちはいつでも蕾む自分を感じ、蕾むことを信じることができる。

蕾むことを心から生きる自分になれたとき、また私は違う自分に出会えるかもしれない。
そのわくわくは、生命がつづく限り、
どんな状況になろうとも、どれだけ歳をとったとしても、
何度でも訪れるだろうと、私は思う。