“色”のつく熟語の不思議
色のつく言葉、例えば「色気」「色艶」などの熟語ですが、それにこめられた我々人間の集合的イメージについて今回は少しだけ考えてみたいなと思います。
私は、ゲーテ(Johann Wolfgang von Goeth)の『色彩論』(1810年)や『形態学』(1790年)を礎とする色彩自然学を専門としています。他分野での見解は”色々”あると思うのですが、色彩自然学は、色に込められた自然の本質的な在り方やふるまいを自然の全体性から紐解く自然学領域ですので、私の立ち位置を明確に考えてみたいと思います。その先に生まれるものがあればと願います。
まず、シンプルなところで1文字目に「色」がつく二字熟語に絞って洗い出してみました。
ほんの少しの時間探したところでも、下記のようにいくつもの熟語が出てきました。
色紙 / 色数 / 色糊 / 色域 / 色弱 / 色度 / 色香 / 色女 / 色鳥 / 色彩 / 色紙 / 色調 / 色黒 / 色男 / 色玉 / 色利 / 色環 / 色恋 / 色気 / 色絵 / 色砂 / 色斑 / 色感 / 色沢 / 色丹 / 色白 / 色漆 / 色釉 / 色味 / 色覚 / 色代 / 色艶 / 色糸 / 色革 / 色文 / 色荷 / 色相 / 色盲 / 色目 / 色板 / 色柄 / 色節 / 色価 / 色素 / 色読 / 色物 / 色々 / 色敵 / 色幅 / 色衣 / 色神 / 色道 / 色事 …..
今回注目した熟語とその意味合い
今回取り上げてみたいのは、上記のような「男女の情事」に関わるような熟語に「色」が使われているという、人間の集合的なイメージのことについてです。下記のような熟語が、それにあたります。
色恋 / 色敵 / 色男 / 色玉 / 色香 / 色気 / 色艶 / 色女 / 色道 / 色文 / 色事 /
男女関係の情愛、あるいは性的なもの、容色を表すような意味合い含んで使われている言葉です。
まず、「色」という漢字の成り立ちから知りたいと思います。
「色」の漢字の成り立ちから
色という漢字の成り立ちは、男女が愛を交わす姿からできた象形文字だそうです。ひざまづいた女性(巴)と、その上に覆い被さるようにいる男性の姿(ク)が重なり合って、「色」という文字を生んだということです。
そういった行為に伴うものとして、高揚する気持ちや顔色の変化などの体験があり、「色」という言葉の生まれた由来とそこからの派生が起こっているそうです。
私はもう少し、この「男女間をつなぐさまざまなこと」に「色」という言葉が使われていることに、自然と人間との関係性や意味が込められているように感じていて、それを書いてみたいと思います。
男と女、その極性をを結びつけるー「色」の役割
色彩は、「光」と「闇」という宇宙の根源的な極性に生まれる無数のグラデーションです。
光と闇とが出会うところに、色が生まれます。その色のある世界でこそ、私たちは生活領域を得ています。
私はゲーテの『色彩論』と出会って、色を学ぶにあたり「光」と「闇」を知るなど、人間には及ばないことを知りました。けれども、その知れないものをできる限り知りたいとも思うようになりました。なぜならそれが色を本質的に知るという、根本的な作業ではないかと感じたからです。光を知ることには宇宙や生命の原理が込められてあります。単純なようで非常に複雑です。闇も同じように。その双方の極性がなければ、色は生まれません。
圧倒的に轟々と覆う真っ暗な闇の中に、光が煌々と生まれます。だからこそ、私たちは朝がやってきて生活することができ夜の中に身を委ねることができます。それらの光や闇が何億光年向こうで生まれ、この地球に到達するまでか到達してからか何度も何度も交わり、弾き合い、今私が見ている植物の緑や、土の色などの色彩となって生まれ出でるのだろうと考えます。それはそれは多くの、光と闇との出会いと葛藤と押し引きが、協奏曲となって、生き動く色彩グラデーションを作るのだろうと思います。
光と闇という私たちの世界を循環させるこの宇宙の呼吸は、姿を変えて、私たちのそばにも浸透しています。
「呼気」と「吸気」という私たちの生命活動も、光の放出する力と闇の吸収する力を宿しています。
「男性」と「女性」、「男性的な力」と「女性的な力」も、見方を広くとれば、「光」と「闇」のエネルギーに満ちていると考えることができます。これを心理学的に「男性原理」や「女性原理」と呼んでいますが、光のエネルギーは「太陽」に象徴され「男性性」に、「闇」のエネルギーは「月」に象徴され「女性性」とされています。
ここで個人的に、「太陽」を「男性的」に感じ、「月」を「女性的」に感じるかどうか、ということに焦点を当てるのではなく、人類に集合的なものを扱いたいと思うのですが、現代よりもずっと剥き出しの自然とともに生きてきた古代人たちは、「太陽」の活気づけるふるまいに「男性的な」在り様を重ね、満ち引きや変容する姿や妊娠や出産との親縁性から「女性的な」在り様を「月」に重ねてきました。それは現代においても、みずみずしいまま私たちと共にある感覚ではないかと、数々の体験、物語、夢、絵画などからも思います。古代人は、古代の人というだけでなく、私たちの内奥にも生きているのだと思います。
「男性」は「光」、「女性」は「闇」の住人だと、まっすぐに捉えてみたとき、「男女」という「極性」を結びつけるところ、すなわち「光」と「闇」を結ぶつけるところに、さまざまな「色」をつかった熟語が散りばめられているという事実が浮かび上がってきます。こういった根本的なものの一致は、偶然ではないのだろうと感じます。私たちは思っている以上にずっと、無意識的なもの、集合的なもの、古代的なもの、根源的なものに包まれて生かされているのだと思います。
私たちが自然と付き合ってきた、その「光なるもの」と「闇なるもの」が何度も何度も交わろうと押し引きする感覚が、きっと「色」の体験の根っこであるのだろうと思います。
以上のことを感じる中で、「色文」「色香」「色敵」「色事」という言葉には、「私」(光)が「私ではない」(闇)相手の場所へと結びつこうとする意欲を感じます。AでもなくBでもない、そしてAでもありBでもある、そんな曖昧模糊としたところに、「色」ということが生き生きと生じているのではないかと感じます。そこには天使も悪魔も両方になり得るような、その境界が感じられないような煌めきがあるのではないかと思います。
あらゆる自然が絶頂へと向かっていくことで備える「愛」や「美」は、極性を結びつけます。光と闇という深い河を、橋渡ししてくれるものが「色」であることを、私たちの内なる獣は、いつだって感じているはずです。
私は色彩自然学を学び、伝えることを仕事としているので、「色文」や「色恋」「色事」などの男女間の情事を表すことばに、とまどいを感じることが正直ありました。でも、今はむしろ、その「弱さ」が「強さ」に変わったように思います。「弱さ」というものは、それをよく観察して、温め続けていればそれが「強さ」に転換する源なのだろうと感じます。
その理由は、ひき離れたものを「結ぶ」ことが容易ではないことを生きてきて知りましたし、許せなかったものを「許す」ということが同じように容易ではないことも知ってきたからだろうと思います。それがひいては「愛」ということに関わるかもしれないことを、私自身の父の闘病と見送りを経験したことによって思えてきたのかもしれません。
「人間」という「間」を認め、多様性を認めてゆける尊い仕事を「色」がしてくれているのではないかと、今は思うに至っています。
まとめ
みなさんはどう思われたでしょうか。
大昔から、人間は「自然」との付き合いがきっともっと重要でした。それに包まれ、共に自然を乗り越え、自然であることを喜び悲しみ生き残ってきたのだと思います。そのことが人間の共通意識を育んできた中で、今回のような「色」ということが生まれてきたのだと思います。きっともっと考えればもっと面白いこと、そして自分自身にも身につまされることが出てくるのだろうと思います。
現代を生きる私たちは、情報が行き交うところで「知っている」と思うこともあると思います。
客観的に調べて「知った」と思い込んでしまえることも少し怖い世の中になったよなと感じます。
私たちが知っていた感覚ですら、合理化した時代は忘れさせることができるのかもしれません。使っていない感覚やかつて使っていた感覚、そんな危機感のようなものを感じます。
好奇心を漂わせ、答えのない不思議を取り戻す。
「色」は、光と闇の間をいかにつなぐか、その自由があることやその喜びを、私たちに見せ続けてくれているのかもしれないなと思いました。
取り止めのない文章でしたが、最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
ご意見、ご感想など、どのような形でもいただけましたら励みになります。
ありがとうございました。