気付かぬうちに音も立てずに変わってゆく自然と、
私たちはいつも隣り合わせです。
いえ、隣り合わせどころではなく、
そんな変化や流転を、
「私」の命が宿しています。
いつの間にか花が咲いていたり
いつの間にか枯れてしまっていたり
いつの間にか美しくなっていたり
いつの間にか蝕まれてしまっていたり。
一人の人が生きるということは、
青虫が蝶に変わるぐらいの
ドラマティックで壮絶なイベントです。
ただ、成長するときは「成長するぞ〜!」といって
成長できる具合ではないところが
人の面白いところです。
「いつの間にか、蝶になっていた」
一生懸命に足元を生きていれば、
成長とは、そんなものかもしれません。
虫に意識があるのかないのか、
結論づけられるものではないと思いますが、
もしかしたら、
蝶になって、もっとも驚いているのは、
青虫本人かもしれないと私は思っています。
蝶になるなんて思いもしなかった。
自分が蝶になれるなんて思いもしなかった。
まさか空を飛べるなんて、考えもしなかった。
そんな気持ちになれるものが成長だったらいいのにな、と
どこかで期待してしまいます。
薔薇も同じように、薔薇になってはじめて
「あら…….アタクシ、バラだったのね、
トゲってこんな感じなのね。」
と咲いてから、自分の香りやふるまいに
驚いているのかもしれない、と最近思うのです。
ゲーテが残した「ことば」にこんな言葉があります。
植物の諸部分が次第に変化してゆく際には、ある力の働きが見られる。
この力はまさに収縮しては拡張し、作り上げては作り替え、結びつけては切り離し、着色しては脱色し、横に伸ばしては縦に長くし、柔らかくしては固くし、与えては奪っていく。
『植物形成の法則』ゲーテ
〜(中略)〜
もっともこの力はこうした全ての働きを、じつに少しずつ、じつにゆっくりと、じつに人目につかないようにして示すので、結局我々の気が付かないうちにこの力は、われわれの目の前で、いつの間にかある物体を別の物体に変えてしまうのである。
自然が用いている生命原理は、ものすごく単純なものです。
粛々と、音をたてずに進行してゆきます。
代表的な表現として
「拡張」と「収縮」という言葉でゲーテは残していますが
大きく広がり、小さく縮こまる。
この相容れない反対に針の触れる活動が、
自然がもつ根本原理だと残しています。
まるで深呼吸のようなそんな活動を
植物だえでなく、動物、鉱物、人間など、
あらゆる自然内の生命がしていることを発見しました。
そして、それが色でいう
「黄」と「青」で示されていると彼は色彩論に続けます。
もっとも単純な芽生えが、
この「拡張」と「収縮」という二つの働きによって往来し、
互いの経験を高め合うことで
気づけば、
似ても似つかぬ「蝶」のようなものに
青虫や「私」を変容させてしまえる可能性が
あると説いています。
人知れず拡張と収縮を繰り返すという単純な動きの積み重ねが、
私たちをいざ何者かに変容させてくれるときの地盤になる。
私は、このことを学んで、
同じことを呼吸のように繰り返す日々が、
いつもに増して愛おしくなりました。
寝て、起きて、仕事をして、疲れて帰ってくる。
そんな繰り返しのような日々を過ごしている人も
きっとこのコロナ禍では多いだろうと思います。
その動きの繰り返す1つ1つに、
自分が自分そのものになるための
変容の可能性が詰まっていると、
自然は教えてくれます。
同じように日々を繰り返す
畑にいるおじいちゃんやおばあちゃん
病床の愛する人、
不器用なやり方で何度も失敗を繰り返す人
それでもきっと、
あなたがあなたになるための日々なのだと
それでこそ、蝶になる、と私は思います。
いつの時も足元のことを
1つ1つ。
今回は以上です。
ありがとうございました。