『どんな小さな自然の生命も、
 自己を実現しようと(自分自身になろうと)している。』

ゲーテは上のようなことを形態学や色彩論を通して残しているけれど、
いろいろ本人に問い詰めて聞きたいことが山ほどある。

1つの文章、それ一文で相当な学びの源泉がある。
多くのものを欲しがるのではなく、
たった1文でも、含蓄が深いものだと本1冊分くらいの知恵があるのではないだろうか。

もしまだゲーテが生きていたら、山奥でも山頂でも海の中でも追いかけていって、
いろいろ聞きたい。
ほんまにいろいろ聞きたい。
生の声を聞けるって貴重なことだって思います。

私は生まれてから自分ってどんな人間なんだろう?とわからないでいました。
物心ついたときから、自分てなんなんだろうと不安定でした。
今もここ(色彩自然学の学校)の代表をしているけれど、
自分がどんな人間かなんてまだまだ知れない。

たまに情にもろくぼろぼろに泣き崩れたりして、
いろんなものを愛おしく感じて「天使の親戚か?」と感じたりする時もあれば、
背をむけてツララを飛ばして疑り深く「ドワーフか?」と冷酷なものを感じることだってある。

表があって裏があって、天使がいて悪魔がいて、
なかなか1つのかっこいいまとまりになるには時間が必要だと感じる。
もはや、まとまることがいいことだとも思えないですが。

ただ、
「自分がどんな人間になれるのかがわかるために生きているのかもしれない」
とだけは思えている。

それは、いろんな自然の生き物たちがそうなんだと教えてくれたからだ。

青虫は地を這いながら、自分がまさか蝶になれるなんてきっと考えてもいない。
頑張って緑を食んで日々を過ごせば、空を飛べるようになれるのに。
それをきっと知らない。

そこに生えている弱々しい木の芽も
まさか数十年したら大木になれるなんて考えてもいない。
光合成して呼吸して、上にも下にも伸びる日々を過ごせば、
まさかりんごが成って動物たちまでもが頼り、集まる愛の塊になれるのに。
それをきっと知らない。

私も、そしてみんなも、今は地を這う青虫と変わらないのかもしれない。
いや、少しは体も褐色づいてきただろうか。
もうすぐ蛹になって、「メタモルフォーゼ!」と叫んで孵化するのかもしれない。

色の本質マスター講座でも、みんなが様々なテーマを抱えてここにいることを感じる。

こんなことを言うと、生徒たちに気持ち悪がられるかもしれないけれど、
ほんとにそれぞれが愛おしい。

それなりに年季が入ってこじれたものも持っているだろうけれど(ごめんなさい)、
そのゆがみこそ、今を弱々しく歩く子どもや若者たちに見せてあげてほしい。

「大人って複雑やね」とか
「大人って面白いね」って学ばせてあげてほしい。

生き物は機械のようにはいかんのよ。
こんな歪さや面白さに、予測できないドキドキする楽しさは、
生命あるものにしか出せないんよ。

そんな声が彼らと接していると聞こえてくる。
いつでも想像を超えるから。

葛藤することは、ルール(規範)を通して行われる。
その規範に、自分を合わせなきゃならないと思うから苦しくなる。

でもきっとこの世で自分を実現するには、
ルールの中にでも、どう宇宙や面白さを感じて、自由に泳げる力を磨くかということも大切だ。
ルールは自由を前提としているし、自由もルールを前提としている。

この世を生きるということはある意味で大きな規範だ。
そんな大きな規範の中で、「私」を自由に生き抜ける心を少しずつ広く深くしてゆく。

それが生きる逞しさにつながるものかもしれないと最近思うのですが。
みなさんはどう思いますか。