色彩のメタモルフォーゼ

ミッキー先生

こんにちは。
色彩自然学の学校 代表のミッキーこと髙橋水木です。
今回は、色に関わるメタモルフォーゼ(変態)する自然について、
少し綴らせてもらいました。

興味がある方はぜひお読みいただけたらと思います。

作り、壊すこと

私には私自身がわからなくなることがよくある。
”維持しようとする「私」”と”抜け出そうとする「私」”が同時に働いていることを感じる。

自分自身に対して、自分で波乱を起こしても仕方がないのに、
気づけば壊さなければどうしようもやっていられない時がくる。
そういう時は、決まって1つの正しさのようなもの打ち立てようと執着しているときで。

行きすぎず、戻りすぎず。
いつもそのいい塩梅のような、とどまり具合がわからないまま
針を振られ、何度もあたふたさせられ、強くもなったように思う。
生命ということは、そうやって自然の天秤に振り動かされるからこそ
容易に固まらず、ユニークな自分を見つけ出すことができるのかもしれない。

実は、止まっていないもの

そういえば、
私たちの体も、作ることよりも壊すことを一生懸命にやっていることを、
生物学者の福岡伸一さんが言われていたことを思い出す。
印象的だったのは、「体は長い目で見ると、固体ではなくて流動体だ」ということだった。

いつも静止しているように見えるものも
実は、流れていることに驚く。
色彩も同じだ。
止まっているように見えて、ずっと動いている。
こういった驚きは、1つの花の蕾のほころびをルーペで眺めたときのそれによく似ている。
誰もが見ないところに
あまりに緻密ならせんを描いて折りたたまれている花弁を見たとき
世界は私の知れない細部まで、創造主の息遣いに満ちているのだなと感じる。

知らないことがありすぎて。
それを知るには、人生は短すぎる。

メタモルフォーゼとの出会い

メタモルフォーゼという言葉との出会いは、
私の人生を変えた。

生命ということには、あらかじめ与えられた「形」を超えていく力がある。
その形を超えていく過程を、「メタモルフォーゼ」・変態と呼ぶ。

自然を観察していると、
「維持」ということだけではなく、「発展」するという視点が、
どうにも否定できなくなる。
自然は機械ではない。やはり生命なのだなと思う。

発芽し、
太陽の方へと向かう葉と
大地の中へと向かう根が、
どんどん自分自身の「形」を求め、与えられた「形」すら脱ぎ、変容しはじめる。
1つ1つ前の形を残したまま、強く開き、深く閉じ、変態するようになる。
私たちはおそらくもっと大気の中で呼吸の仕方を大切にできたら
羽根だって背中から生やせるのかもしれない。

自然のもつ創造性や進化力は、途轍もないものである。

その自然の頂点というべきところへ向かうまでに
1枚の葉がどれだけの変容をするか、
そういったことにおいて、
目に見えるだけの快活なことだけが
生命に起こっているわけではない。
目に見えない、秘匿の中で、
苦しいことも起こっている。

自分を環境と擦り合わせて、
現実と理想を擦り合わせて、
私と私じゃないとを擦り合わせて
超えるためのエネルギーを生んでいく。

そこに赤らむことが
起こらないはずがない。

私のメタモルフォーゼ

私の中で今
どんなことが行き詰まり、壊れてゆきながら
今までのことを練り込み、分解し、
何を作り上げようとしているのか、

そんなメタモルフォーゼに軋む心身をまた感じながら、
先日から観察している「蛹」に会いに
今日も時間をつくり、散歩にでかける。

色の本質を捉えようとする試みは、
まだ今もなお、正しさを捉えようとするたびに壊れ、
メタモルフォーゼしていく。

そのたびに強くなる芯のようなものを残して。

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