草を刈る

ミッキー

【この記事を書いた人】 色彩自然学の学校 代表 髙橋水木

畑を準備するために、草刈り機を使って草を刈るところを、先日見せてもらった。
そのあと、少し熱がでた。

草刈機を動かすには、混合燃料といって、
通常使用されているガソリンなどの燃料にオイルを混ぜたものを使用する。
使用される農業機器によって
混合比率をあらかじめ指定されていることがほとんどなので
自分で材料を用意して、タンクなどに入れて混合する。

背中に機器を背負って、スイッチを入れると
ブイーン!と大きな音がなり続けて、円形の鋸の歯が力強く回る。

足元から円を描くように刈っていく。

今回は秋冬用の畑の下準備の草刈りをしたのだけれど、
草刈りするそばからいろんな虫たちが跳ねまわった。
自分のいた場所から
追いやられていく光景だった。

普段から虫たちにそっと近づいて
その表情を撮り回って、大切に思っているけれど。
この草刈りは、
彼らの場所を容赦なく追いやる。
見たくない、と逃げることもできるけれど、
ちゃんと見なきゃならない、という気持ちがあった。

バッタ、カマキリ、こおろぎ、トカゲ、
蜘蛛、ダンゴムシ、草に隠れて生きていたいろいろが、
草を刈り始めると、その場から逃げ惑っていた。

しばらく私も混乱して眺めていた。

時間が経つ中で、だんだんと、
それでも私は、ここに作物を作り、
秋や冬を食べ物をいただいて生きるんだ。と
思う気持ちが湧き出てきた。
それが正しいかはわからない。
でも生きるということの本来は、そうなんだとも思う。

その現実が、
「いただきます」の
重みや感謝にまたなるのだと思った。

草を刈るなら、
たとえ胸が痛くても、
私が刈らねば始まらない。
少なくとも、その場にちゃんといなければ。
私自身が参加しなければならない。

当事者になるということは、
そう簡単なことではない。

当事者にならないように、
今の世の中のしくみはうまくできている。

でも、
自分がいない世界をいくら上から眺めていても、
そこには私は生きた心地がしない。

たとえどんな矛盾した気持ちに苛まれたとしても
自分の足で突っ込んで、
心が叫ぶありのままを、
自然とともに生きてみることに、
魂の彩りがきっと生まれる。

そう思って
私は、草を刈る現実を
これからもちゃんと見ようと思った。
また熱を出すかもしれない。
私は弱い。それでも、弱さと強さは、きっと呼び求め合いながら両方が輝くはずだから。

Follow me!