「亭主関白」の真相|白色の考察もからめて|色彩自然学コラム

こんにちは。色彩自然学をやっているミッキーです。

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一般社団法人 色彩自然学の学校 代表
高橋 水木(通称:ミッキー先生)

略歴:前日本色彩心理学研究所17年勤務/色彩心理学・色彩自然学大学講師歴9年/2020年色育士養成開始
実績:色の本質と心の本質の連関/子どもの心の発達と色彩との関連/個性化と色彩の連関/
   ランドセルや教科書の色彩監修、メディア取材など多数

今回は「亭主関白」について考えたいと思います。

「え?なんで色彩自然学なのに"亭主関白"?」

そう思っている人も多いことでしょう。
私もそう思います。

「亭主関白」って面白いよな〜と以前から思っていたんです。
なぜなら、なかなか自然の生き物には亭主関白がいないように思うんです。
どちらかというとメスや女性が強いエピソードばかり。


マニアックですけど、よければご一緒に”亭主関白”の世界を
色と心の冒険してみましょう!

亭主関白ってなに?

亭主関白といえば。。。。。。

夫「おい、お茶がないぞ」
妻「はいはい。」
夫「おい、着替えはまだか」
妻「はいはい。」

私の亭主関白のイメージはこんな感じですが(笑)
みなさんはいかがですか?


「亭主関白とはなにか」をウィキぺディアで調べてみます。(wikiさんありがとう)

亭主関白とは?

亭主関白(ていしゅかんぱく)とは、「亭主」が「関白」のようであるということである。亭主は夫のことであり、この言葉は亭主が関白のように家庭内で威張っている状態を指す。この逆をかかあ天下という

引用:Wikipedia

なるほど。「亭主」が「関白」なのですね。うん。


ところで、「白」という色名が入っている「関白」が気になるので見ておきたい。

調べますと、

「関白」とは、成人の天皇を補佐する官職で実質上の公家の最高位のこと

威力や権力の強い者のたとえとしても「関白」という言葉が使われることがあるそうです。

「家庭内で威張っている状態を指す」とありますが、それは亭主関白になる亭主個人に根がありそうですね。
そこを探ってみましょう。その前に....気になるので、「白」について探ってみましょう。

関白の「白」の意味とは?

「関白」という言葉には、

「関り(あずかり)白す(もうす) 」=関与する

という意味があるそうです。

昔は「白」色が「白す」と書いて「申す」のような意味合いを持っていたんですね。

みなさんもご存知かもしれませんが、
祝詞(のりと)の時に「申す」を「白す」と書きます

「白」は漢語で、色を表す白の意味の他に、
「明るくなる」「明らかにする」「いさぎよい(潔白)」「申す、申し上げる(敬白)」「告げる、明かす(告白)」
などの意味もあるそうです。

「白状」や「独白」などの言葉の由来でもあります。

やはり「白」には、濁りのない「明るさ」のイメージや「清さ」のイメージが宿ります。

色彩自然学でも「全き光」を示す「白」には
「正義感」や「純白」など、
神性が宿る高尚なものを、古来から多く発見してゆくことになります。

私たちが「白」をたどると
人間や生命は「神ではない」「神にはなれない」「神に近づきたかった」という
思いがこぼれてゆきます。

緊迫感・緊張感を与える白

私は以前歯医者に行ったときに、心臓がバクバクして音が口から出るほどで、困ったことがあったんです。

その歯医者さんの壁紙は、一面が「白」色でした。
道具も椅子もほとんどが白色で統一されていました。
そして真っ白な壁に、木製の壁掛け時計が1つだけ。

だんだん緊張感が増してしまって、
あまりに心臓音が大きくなってきたので、
深呼吸しながら壁掛け時計だけを見ていた思い出があります。

あれはおそらく、あまりに多くの「白」に四方八方囲まれ、
私の自然な反応として緊迫感で苦しくなったのではないかと思います。
軽くパニックでした。
ああいう真っ白な場所にはせめて絵とかかけてほしかった。

こういった体験をされた方も少なくはないのではないでしょうか?

「白」は人に緊張感を与えることがあります。

少し黄色味の白を選ぶことでも、壁紙などはだいぶ和みが生まれます。


私たちは白でも黒でもないくもりの世界(中間世界)を生きていますから。
あまりに「清い」広い空間には、自分がいてはいけないような心許ない感覚が起こります。
私が単に腹黒いからだけではありません。

また、一面が真っ白の空間に一定時間いると、自我がうまく機能しなくなり、
時間、空間、距離感、存在感、いろんなものがわからなくなって
混乱することになります。

亭主関白になる心理状態

では、ここからは心理面における亭主関白について考えてみましょう。

亭主関白というのは、ある一種の行動様式ですから、心理に関わります。
特に、亭主個人がもつ心理にフォーカスして考えてみたいと思います。

亭主がなんらかの理由で母性からの自立が困難な場合を考えてみます。
それは現実的な亭主の母親との関係性や、亭主にとっての母性なるもの(社会・会社など)も含みます。
その亭主の母性は、結婚した場合、異性でありパートナーである奥さんに投影される可能性が高くなります。
母性を投影した奥さんに対して、亭主が強く依存している状態が「亭主関白」だと考えることができます。
そうやって母性に強く甘えて依存している状態が、亭主関白であると考えてみると、少し世界が面白く見えてきます。
先程の会話があっという間にわんぱくな子どもみたいに聞こえてきます。

夫「おい、お茶がないぞ」
妻「はいはい。」
夫「おい、着替えはまだか」
妻「はいはい。」

「母性からの自立」ということと関係していると考えられます。

亭主関白の背景にある心理

亭主個人「母性からの自立」がなんらかの理由で難しく、奥さんにそれを投影している状態

母性からの自立について

ここからは少しまじめに「母性からの自立」について考えてみます。
「母性からの自立」は、今回の「亭主」だけに限らず、私たちひとりひとりの問題でもあります

母性から自立するという心理過程は、どういった背景から生まれるというと、
母性にのみ込まれることによる自我意識の恐怖心により始まります。

これは、自然界における光と闇の根本原理と同型で
光(意識・自我)を飲み込みそうな圧倒的な闇(無意識・魂・母性)
という構図からも見えてきます。


最初は母性という楽園の中にいる私たちは、
母性の中で慈しまれ育まれることで自我が少しずつ育ってゆきます。
その時、その中にいる私たちは母なるものを良い母だと感じています。

しかし、自我がある程度育ってくると、次第に母性が疎ましく思えてきます。
なぜなら母性は、生命を育む一方で、その生命の自立を
後ろ向きに阻んでしまう強さも持っているからです。

母性は愛するあまり子どもを自立させまいとしてしまう力を
知らず知らずに働かせています。

自立とは、そういった母性の作り出す楽園から、旅立つことを意味します。
それにより、自分自身を生きることが始まるからです。

母性からの自立には相当なエネルギーが必要です。
楽園を喪失するわけですから。

ただ、これは直線的な自立の考え方で、現実はこうもすっきりいかないことが面白いです。

河合隼雄先生は、日本人の母性に対する依存心の強さについて指摘されていました。
日本の「なんでもしてくれるお母ちゃん」イメージは根強いものがあるそうです。

彼は著書『魂にメスはいらない』の中で、このようなことを話されています。

腕白小僧がお母さん(妻に投影した母性)に偉そうに言っているのが亭主関白です。

お母さんからこれだけ離れたから母性から自立できたというふうには言えないですね。
とにかく、母性からの自立というのはとてもむずかしいことでね。
ある程度以上に自立すると、日本のカルチャーの中にはおれないと思います。
しかし、ある程度やらないと面白くないですからね。

引用:『魂にメスはいらない』河合隼雄・谷川俊太郎


わたしたちひとりひとり、母性からの自立ということは、
折に触れて幾度も幾度も、行われるものなのかもしれません。

自立と依存の間で揺れ動く母性との付き合い方が、とりたてて育むものもあります。
ある程度何かに依存していても自分自身をなくさない自我を育てられることにつながります。

亭主関白の動物や生物は少ない!

さて最後になりますが
面白いことに、自然界の生き物たちは、亭主関白の動物や生物が非常に少ないです。

亭主関白とは逆に、メスがオスよりも強く逞しい現象が多く見受けられます。

例えば、
・ミーアキャットの世界ではメスがボスです。
・チョウチンアンコウのメスは、オス(体の小さい)を従えている
・みつばちは女王制度

これはごくごく一部のことで、自然界の野生はメス、女性が強いことがたくさん発見できます。

これらのことは自然の摂理に由来します。
そしてそれは、色の本質にも、私たちの心の本質にも実は奥底で結ばれています。

またそのことは別のコラムでお話しできたらと思います。

「亭主関白」ということが起こること自体が、「母性」から自立することの困難さ、偉大さ、大変さを
物語っている
というお話しでした。

今回は以上です。
少しでもこの辺りのことが面白いと感じる方は、ぜひ色彩自然学の学校へ学びにきてください。


ありがとうございました!

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